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2014年11月25日 (火)

神は内向的なこころ→絶対の第三人称

アブラハムの生涯―森有正講演集 (1980年)が大変為になった(世間は自力合理的分別で暮らし、魂は他力無分別に生きるべしという我が人生観にぴったり)ので引き続き森有正講演集、今度は「古いものと新しいもの」

まだ途中だが森の日本語日本文化論を勉強した。

森は、日本語の 「二項関係」 性に関連して、あと二つ問題を指摘している。いずれも日本では論理的な思考がふじゅうぶんにしか行われない、さらには思想というものがじゅうぶん成り立たないのではないか?という深刻な疑問につながる問題だ。

詳細省略(上のリンク参照)するが、こうした日本語の特性が、日本の湿潤な風土から外へ出ようとしない(使えそうなものだけ取り入れる)内向き文化につながっていると森は主張する。

ナルホドなあと老人俺はせめて気持ちだけでも外へとパスカル、ヴェイユなどの更なる読書を決意した。そして、我が肉の終焉までには

一人称の尊厳:個人というものは一人称になりうるもの、また一人称になることによってすべての根源になりうるもの、ですから個人を尊重しなければならない。それ以外に個人を尊重する理由はどこにあるでしょうか。
自分の中にすべての根源である一人称の尊厳と言ったらおかしいけれども、置きかえることのできないものを自分の内に感じるから、それを第三人称しか表していない他人の中にも感じて尊重するのではないでしょうか。
p149

一人称の尊厳爪の垢を煎じて、我が裡に神(絶対の第三人称)をお招きしよう。もともと俺の中には神の卵がいらしたのだから。

秋高しふたりごころのボクがいる
 心は内向的なこころ。情は相手に通わせていくこころ

神は内向的なこころ→絶対の第三人称。

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
ルカによる福音書17章20~30節

2014年11月25日(火)

ブルジョア俗物オペラ→魂の弦楽四重奏→小田剛一の回心 plaza.rakuten.co.jp/doyoubidayo/di… 人生は固有から普遍への旅→固有(人間小田剛一)が普遍(俳優高倉健)に生まれかわった瞬間だ(と俺が勝手に決めつける)。言うならば回心やね。ああ、俺も生まれ変わりたい。終活キリスト教研
posted at 04:57:40

森有正の 「日本語・日本人」 論の三回目、いよいよ核心の「二項関係」論を取り上げます。www.tsugami-workshop.jp/blog/index.php… を研究中。日本語は二項関係(汝ー汝)が基本だから孤独になりきれないと森は言う。
posted at 08:21:41

RT @shiftsphere: #DCEXPO エクシヴィさんのVR空間タッチインターフェース体験してきました!主婦さんが案内しておられましたw 手指の認識はそのもの快適でしたー! @koukiwf さんが製作担当されたそうです。凄く良かったですよ~ pic.twitter.com/Dr5UMTi6WR
posted at 08:23:30

#photoikku 身の丈を削る年頃年用意  #jhaiku 若者は太れ、老人は断捨離、細れ。最期は霊的決着と肉の終焉へ。 pic.twitter.com/XB62R6HbdL


posted at 16:57:53

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