哲学

2009年11月25日 (水)

はじめての言語ゲーム(感覚の一致が先か、言語ゲームが先か)


先日、姑の薬をもらいに薬局に行った待ち時間に図書館で見つけて即、借り出した。もう、死ぬまで本など読まないかと思っていたが、読書中。著者橋爪大三郎の導きで俺の哲学が深まる。

人びとの感覚が一致しているから、言葉の用法が一致する、のではない。言葉の用法が一致しているから、人びとの感覚が一致しているという確信が生まれるのだ

橋爪の言語ゲームの定義は「規則(ルール)に従った、人びとのふるまい」。だから、上の引用を言語ゲームという言葉を使って言い換えると、感覚の一致から 言語ゲームが生まれのではない、言語ゲームの下で人々が生活しているから感覚の一致があるような気がするのだ、となる。従って、

「痛い」は、感覚の名前ではない。感覚 の名前だと考えると、自分が痛いときだけしか、「痛い」といえなくなる。相手が痛いかどうか、自分にはわからないからだ。そうではなくて、「痛い」は、自 分が痛いとき、そして相手が痛いときのふるまいである。ふるまいだから、お互いに観察できる。自分も相手も、誰もがひとしく「痛い」という権利があって、 それは痛いということなのである。

つまり、感覚の一致→名前の一致→会話の成立ではなく、言語ゲーム→ふるまいの一致→名前の一致/会話の成立ということになる。だから、言語ゲームが異なれば(例えば母語が異なる)、ふるまいも名前も一致しなくなったりするのだ。

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2009年9月15日 (火)

希望学

というものがあることを昨日のクロ現で知った。

番組自体はたいしたことがなく成る程レベルであったが、これを見ながら「希望学」で検索して希望の定義を知り、これは大参考になった。

希望学:希望とは「具体的な何かを行動によって実現しようとする願望」だ。←「具体」「行動」「実現」「願望」がAND条件のキーワードだそうな。

もとは倍賞千恵子主演のミュージカルのために作られた1曲。たま たまラジオでこの歌を耳にした岸洋子自らの希望で昭和45年にシ ングルとして発売。ザ・シャデラックス、フォー・セインツとの競 作でしたが、岸版が最も人気を呼びました。 そしてヒット最中に岸は倒れ、膠原病であることが判り、しばしの 入院/療養を余儀なくされます。以来平成4年に亡くなるまで病と の二人三脚の歌手人生を送りました。

と、YouTube投稿者の解説にあった。

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2009年8月16日 (日)

人類が(懲りずに)惹き起こす大量殺戮の原因は何だろう

久しぶりにアバウトミーの質問を作った。

この質問を作ったきっかけは哲学お喋りパーティでのコメントとその数日前に読んだ日経記事(サル学から見た人類の戦争の起源)である。

哲学お喋りパーティに俺が書いたコメントを転載しておこう。

先日の日経記事を思い出しました。「サル学から見た人類の戦争の起源」からの転載です。B85c0

今年も2日後に太平洋戦争の終戦記念日を迎える。わが国は64年間、平和の道を歩んできた。地球上では、民族や宗教の対立に起因した紛争が絶えない。長年、ゴリラなど大型類人猿の研究を重ねてきた京都大学教授の山極寿一さん(57)は京都市北白川追分町の人類進化論研究室で、チンパンジーの群れの戦いと、人類の戦争の違いについて、まず話し始めた。

 「チンパンジーの群れと群れとの衝突が、これまでに目撃されている。この衝突が、人類の戦争と根本的に異なるのは、個々のチンパンジーは自己の利益のために戦っていること。これに対し人類の場合は、自分たちで作り出したユニークな社会性を背景にして、共同体の利益のために戦争をするのです」

 ということで、人間が惹き起こす大量殺戮(さつりく)の原因は「言語の出現」「土地の所有」「死者の利用」の三つ との主張です。

私が思うに、上の三つは、言語→観念による自己の肥大化(家族愛→民族愛→国家愛→排他愛、そして、利己の肥大化)としてくくれるように思います。 たしかに、愛は素晴しいけれど、他方で愛は執着(その原因は観念による肥大化)でもあります。執着しない愛があればいいのになあ。

あ、そうか。オペラの主人公はたいてい愛しつつ死にます(椿姫、トスカ、トリスタンとイゾルデ等々)。これは執着しない愛願望の表れかもしれません。

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2009年8月15日 (土)

愛縛清浄

Photo 昨日、横浜美術館(初めて)に行ってフランス絵画の19世紀展を見てきた。アングル等のアカデミズムから印象派までの流れをたどる企画展であるが、正直言ってアカデミズムの絵は面白くない。マネやモネに至ってようやく、いいなあと改めて実感した。

その後、常設展の場所に移ったらカメラに○のマークがある。係員に確認したらストロボを焚かなければOKとのこと。こんなこともあろうかと携行していたカメラでまず最初に撮影したのが守屋多々志「愛縛清浄」の一枚である。

「男女が四肢をもって離れがたく縛りあっていることは本質として清浄であり、菩薩の境地」という理趣経の一節を採った日本画とのことだ。エロい意味で理解 されがちだが、全てのものごとは一であり関係し合っている、人間は本来清浄というのが理趣経の趣旨だと(いくつか検索して)理解した次第だ。そんな境地に はまず到達できないが、ああ、愛別離苦四苦八苦。以下、「やさしい理趣経の話」から一部転載させてもらう。

こうした自と他の繋がりを見ていくと、 自も他もない一体不二の関係性が見えてくる。これを別の言葉で「縁起」ともいい、「空」ともいう。また「清浄」とも言う。このあたりが般若理趣経と言われ る所以であって、「清浄句の門」とは、自も他もない「空」という関係性の教えとの意。だから、説一切法清浄句門 (せーいっせいほうせいせいくもん)で「すべてのものが自他の区別のない清らかな心の教えを説く」ということ。

そしてこの後、「○○せいせいくしほさいー」と唱える定型句が十七回繰り返される。これを十七清浄句と言い、男女の性交に関する言葉が登場するので有名な ところである。まず「妙適清浄句是菩薩位(びょうてきせいせいくしほさい)(妙適清浄の句は是れ菩薩の位なり)」とあり、「妙適」とは、まさに男女の性交 のよろこびを意味する言葉であり、またより大きな楽しみという意味もある。理趣経はこうして男女の性という生命を生み育むおおもとの交わりを、一味一体の 清らかなものと見て、それを菩薩の心と表現してより神聖なものと捉える。

Photo_2 その「妙適」が「妙適清浄」と表現されることによって、単なる男女の合体を性的意味合いから転換して個と宇宙、自と他、内と外という仕切りを取り払った全 体として物事を捉える世界観を表現する言葉となり、大きくその意味合いが変わってくる。個々の私情をはるかに超えて自と他の境のない、つまり宇宙のすべてのものとの一体、一つであるとの意識により、より大きなよろこび楽しみへと心を差し向ける手かがりとして男女の性交を意味する言葉を表現している。

愛縛清浄がガラスの反射で見苦しくなっているので(これを克服する意志も技量も俺には無い)、もう一枚、「王様の美術館」ルネ・マグリットを載せておこう。菩薩も夜叉も全ては現象、見る角度によって様々に見え、見る者がどのように記号世界に構築するかということなのである。

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2009年8月 8日 (土)

孤独な鳥は

大原麗子の孤独死についてモーニングショーはどんな風に伝えるかなあと興味を持って昨日は「スーパーモーニング」を録画した。その中で、徹子の部屋で大原麗子が好きな言葉を語り黒柳徹子も唱和していた言葉が気に入ったので、「カスタネダ 鳥 大原麗子」でググッて出典を発見した。カスタネダ「未知の次元」の冒頭に引用されている詩だそうである。

孤独な鳥の条件は五つある

第一に、孤独な鳥は最も高い所を飛ぶ
第二に、孤独な鳥は同伴者にもわずらわされず
    その同類にさえもわずらわされない
第三に、孤独な鳥は嘴を空に向ける
第四に、孤独な鳥ははっきりとした色をもたない
第五に、孤独な鳥は非常にやさしくうたう

by サン・ファン・ラ・クルス
  「光と愛のことば」

権力性から遠く離れて。愛と希望、自由と勇気。単独者である
ことの、美しさです。

だそうである。大原麗子は単なるタレントではなかったと思う。

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2009年7月29日 (水)

大海の一滴(ではなかった)大河の一滴

次のアバミーでのラリーで「大海の一滴」という言葉を使ったが、

レッテルを貼ればその分、盲目になります。アカもウヨもガイキチも全て私たちの鏡です。大海の一滴にすぎないのですから。

成程、鏡を見たことがない人間というのはいるものなのですね。
はは、お互い様ですな。

 
後で検索したら、間違えていた。「大河の一滴」だった。この本、読んだことがないし読む気はしないけど。

なんとか前向きに生きたいと思う。しか し、プラス思考はそう続かない。頑張ることにはもう疲れてしまった―。そういう人々へむけて、著者は静かに語ろうとする。「いまこそ、人生は苦しみと絶望 の連続だと、あきらめることからはじめよう」「傷みや苦痛を敵視して闘うのはよそう。ブッダも親鸞も、究極のマイナス思考から出発したのだ」と。この一冊 をひもとくことで、すべての読者の心に真の勇気と生きる希望がわいてくる感動の大ロングセラー、ついに文庫で登場。

上の連想から久しぶりにアバミー質問を作成した。
画像は適切なものを思いつかず、雅子さんへのエールとした。

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2009年7月 9日 (木)

ショスタコーヴィチと構造構成主義

200pxdmitri1 昨日、mixiの森の中をちょろちょろとコミュニティ探しをして見つけたのが「ショスタコーヴィチ」と「構造構成主義」のコミュニティ。「ショスタコーヴィチ」には次のような挨拶を書き込んだ。

はじめまして。土曜日と申します。
遥か昔、高校時代に5番/ロジンスキー指揮のレコードをを聴いたのがクラシック音楽に入った第一歩でした。最近、また、ショスタコーヴィチに目覚 めて(彼の音楽が一番、アドレナリンがでることにようやく気づきました)交響曲全曲踏破中です(弦楽四重奏曲は一応、エマーソンSQの全曲演奏を図書館か ら借りてケータイに落とし込んでいます)。

このようにショスタコーヴィチは私の青春です。皆様、よろしく遊んでやって下さい。

そして、構造構成主義には

はじめまして。土曜日と申します。

「構造構成主義とは何か―次世代人間科学の原理」を読んで読書感想文を書いて理解した気分でいる一知半解です。読書感想文に

外部世界も実在しないし、唯一の正しい科学理論もありません。理論や政策の真理性という話は全部インチキです。擁護すべきものは、世界中の人々の意識の中に存在している、相互に共通であったり背反したりしている多元的な心的構造の実在性だけです。
私がここで提唱している多元主義社会は、世界の人々が、破滅に向かわないで、共存可能な、恐らく唯一の最終社会形態です。

を(確か、池田清彦さんの言葉だと記憶)引用して時々、自分で読み返しています。そして、

(1)反帝国主義(資本による政府乗っ取りを防ぐ)(2)自由主義(とりわけ思想言論の自由を維持拡大する)(3)多元主義(共産主義・ファシズ ムの亡霊と戦う)(4)社会的共通資本の重視(資本がエネルギー・食糧・水・環境を食い潰すのを防止する)という旗印で人民戦線設立/俺は安穏な老後を楽 しめるという妄想を抱いているアホウです。

というのが自己紹介だ。そこで、ショスタコーヴィチを聴くとアドレナリンが出る理由が今、わかった。価値一元主義の権化(ソビエト連邦)で窒息しそうになりつつも諧謔と皮肉と屈従と内なる闘争心でなんとか生き伸びて音楽を発信し続けた彼のアドレナリンを貰っているのだと。

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2009年6月15日 (月)

延命治療の是非(嫁が泣いてしまった)

昨日は嫁と大激論。テーマは「延命治療の是非」である。

デイ・サービスやショート・ステイで姑が世話になっている介護施設が、救急(心肺停止)の場合に、救急救命士に心臓マッサージや気管挿管などの延命(救 命?)措置をしないでほしいという希望があればその旨の同意書を出してくれとの依頼をしてきている。(ネット検索してみると、そのような同意書を得ている 施設が世の中にはあるようだ)

この件を、嫁は「私が母の生死を決めることになる」とずっと悩んでいたようだ。昨日の夕方にこの件を初めて聞いて俺は「その件は尊厳死とかの問題とは違う だろう。緊急時なのだからその状況に応じて判断するしかないんじゃないの」と応えたり、夜には「同意書があっても緊急時なのだからそんなの施設、救急隊員 は見ているヒマが無いよ」とか酒を飲みながら真摯に接していたのだが、最後は「うるさい、泣くな、俺がこんなにきちんと対しているのに」と喧嘩別れで寝て しまった。

朝になって、いろいろ検索したけど、救急隊員はこうした救命(延命?)措置を施す際には本人または家族の意思の確認をするようだ。これを踏まえて思うに、 結局は齢相応(余命相応)の判断とするしかないのかもしれない。88歳の老婆に気管挿管などの措置を施すのは過剰(残酷?)医療と判断するべきなのかな あ。この件について23日に介護施設が説明会予定なので俺が行って来ようと思っている。

ということで、俺自身は自分のリビング・ウィルをどう考えるべきか。しぶちんの俺なのだからそれを全うするべく過剰医療拒否(尊厳死させてくれというようなエラソーなことまでは言わないが)することにする。参考までに、

「私はALSの告知を受け、いろいろ考えた挙げ句、延命措置を断る決断をしている。この延命措置の是非については、私は誰とも絶対に議論しないと決めてい る。ALSに直面する患者の状況は千差万別で、それによって、この問題の対処の仕方はみな違う。要するに、延命措置によって生き延びた時の生活の質を、自 然死選択と対比して、かつ、自分の年齢、これまでの人生の達成感、死生観などに照らして、どう考えるかの問題だ。二者択一の問題だが、それはあくまで個人 的な問題で、一般論として、どちらが正しいということはできない。(中略)この選択は患者本人だけが決断できるということ、(中略)他人が勧めたり、誘導 したり、いわんや強要することが許される問題では絶対にない」

という意見をリンクしておく。生老病死、四苦八苦である。

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2009年6月11日 (木)

目が見えず、耳が聞こえない東大教授・福島智

20090609_1 爆笑問題のニッポンの教養を毎週ビデオで録って見ているが、今週はタメになった。

そもそも障害とは、近代になって生み出された概念だと、福島は主張する。産業革命のころ、社会は大量生産を可能にする均質な労働力を求めた。それは一定程 度の労働に耐えうる身体条件を備えた均質な労働者を必要とする社会でもあった。そこからこぼれ落ちる生産能力の低い人間を “障害者”とひとくくりにしたのだと福島は言う。

昔、パソコン通信をしている時に何かの拍子で「みんながハンディキャッパー」と書き込んだことがあったけれど、まさにその通りだと思う。「障害者」という言葉もあるプリズムから見た人間のレッテルに過ぎないのだ。

ナチスドイツの収容所に入れられた経験のある人で、ヴィクトール・フランクルという人がいるんですが。彼の本を読んでいて、すごい公式に出会ったんです。
その公式は、絶望=苦悩-意味って言うんですね。
左辺に絶望があって、絶望=苦悩-意味。これは何を意味するかというと、“-意味”を移行したら、絶望+意味=苦悩ということです。意味がない苦悩が絶望である。
で、苦悩と絶望は違うんだっていうことを、彼はアウシュビッツの経験から言っていて、私は同じことを18歳の時に考えて、全然違う時代と状況で似たような ことを考えている人がいるっていうことに出会って、すごく感動しましたし。何が幸福か不幸かっていうのを考える、そのさっきの三つのフィールドの議論の中 で、すごく重要な意味を持つのかなと。苦悩があるから、しんどいから不幸だって簡単に考えるのではなくて、意味をそこに見いださせれば、それは絶望ではな い。新しい豊かな人生が見つかるかも分からないっていうふうに思っています。

そこに意味を見い出すことが出来れば、苦悩するということも豊かさの一つと考えられる。つまり、障害も苦悩も豊かさの現れという思いに到ったのが収穫だった。

再放送予定は6月15日(月)午後3:15~<総合>、17日(水)午前2:30~(火曜深夜)<BS2>。お見逃しなく。

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2009年5月13日 (水)

本質主義と社会構築主義(構造構成主義)

アバミー「ほんとう」って何ですかね。質問でちょっと面白いラリーになりかけたのだけれど、しぼんでしまうようである。残念だ。

このラリーは(ウィキに従うと)本質主義と社会構築主義との対立に分類できるようだ。

本質主義(ほんしつしゅぎ、: essentialism)とは、本質(事物の変化しない核心部分)を自立的な実体、客体的な実在物であるとみなした上で、個別の事物は必ずその本質を有し、それによってその内実を規定されている、という考えをいう。

社会構築主義(社会的構築主義、社会構成主義、social constructionism or social constructivism)とは、現実(reality)、つまり現実の社会現象や、社会に存在する事実や実態、意味とは、すべて人々の頭の中で(感情意識の中で)作り上げられたものであり、それを離れては存在しないとする、社会学の立場である。

主義で考え方、思想を分類するのは好きではないが、俺には社会構築主義という呼称より構造構成主義という名称の方が実感が湧く。以下、参考リンク「構造構成主義とは何か」
 から一部だけ転載しておく。

外部世界も実在しないし、唯一の正しい科学理論もありません。理論や政策の真理性という話は全部インチキです。擁護すべきものは、世界中の人々の意識の中に存在している、相互に共通であったり背反したりしている多元的な心的構造の実在性だけです。
私がここで提唱している多元主義社会は、世界の人々が、破滅に向かわないで、共存可能な、恐らく唯一の最終社会形態です。

「世界中の人々の意識の中に存在している、相互に共通であったり背反したりしている多元的な心的構造の実在性」を唯識は人人唯識(一人一宇宙)と何千年も 前に表現したし、また、ライプニッツはモナド(簡単に言えば、モナドとは、デカルトの立場から見られたアリストテレスの「形相(イデア)」)と名づけたの である。

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