はじめての言語ゲーム(感覚の一致が先か、言語ゲームが先か)
先日、姑の薬をもらいに薬局に行った待ち時間に図書館で見つけて即、借り出した。もう、死ぬまで本など読まないかと思っていたが、読書中。著者橋爪大三郎の導きで俺の哲学が深まる。
人びとの感覚が一致しているから、言葉の用法が一致する、のではない。言葉の用法が一致しているから、人びとの感覚が一致しているという確信が生まれるのだ
橋爪の言語ゲームの定義は「規則(ルール)に従った、人びとのふるまい」。だから、上の引用を言語ゲームという言葉を使って言い換えると、感覚の一致から
言語ゲームが生まれのではない、言語ゲームの下で人々が生活しているから感覚の一致があるような気がするのだ、となる。従って、
「痛い」は、感覚の名前ではない。感覚 の名前だと考えると、自分が痛いときだけしか、「痛い」といえなくなる。相手が痛いかどうか、自分にはわからないからだ。そうではなくて、「痛い」は、自 分が痛いとき、そして相手が痛いときのふるまいである。ふるまいだから、お互いに観察できる。自分も相手も、誰もがひとしく「痛い」という権利があって、 それは痛いということなのである。
つまり、感覚の一致→名前の一致→会話の成立ではなく、言語ゲーム→ふるまいの一致→名前の一致/会話の成立ということになる。だから、言語ゲームが異なれば(例えば母語が異なる)、ふるまいも名前も一致しなくなったりするのだ。




昨日、mixiの森の中をちょろちょろとコミュニティ探しをして見つけたのが「ショスタコーヴィチ」と「構造構成主義」のコミュニティ。「ショスタコーヴィチ」には次のような挨拶を書き込んだ。
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