哲学

2008年5月11日 (日)

音楽も映画も芝居も本質は愛

Photo 「音楽も映画も芝居も本質は愛。愛の前では権力も無力だ」

これは誰あろう、あの小泉純一郎氏の言葉である。云うてくれるやんかあ、純ちゃん。芸術の本質を理解している人ではある。さすが、名答弁「人生いろいろ」の人だ。詳細は小泉純一郎「音楽遍歴」へ。

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2008年4月23日 (水)

木田元さん、テレビに登場

Photo_4 反哲学者木田元が爆笑問題と対決。詳しくは関心空間へ。

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2008年4月13日 (日)

いったい何を個性的と言うのだろう?

Photo_2 個性的でありたいですか?という質問のコメントラリーで、個性=その人の原理(選択でも思考でも行動でもとにかくその人の原理)という(一応の)結論に到達したので記録しておく。下は、その導出過程の俺の発言(にリンクを付加したもの)だ。

最近、私、自分が編み出した方程式[人生=損得+好き嫌い+原理(快楽、汝)]が気に入っています。損得は期間をどう捉えるかで若干の個性の差は出るでしょうが概ね皆さん共通、好き嫌いは個性が大きく出る部分ですが好き嫌いは誰しもあるという点では共通。とすると、「人が人生を送っていく過程に措いて自然と出来上がって行くもの」とは原理ではないかと今考えました。そこで、個性=その人の原理という式ができました。私もこんな脳内遊びが好きです。

人生(人間)=損得+好き嫌い+原理。

そして、原理は人様々(多元主義)。それを個性と呼ぶのである。あ、モナリザ(本作を美術史的観点から名画中の名画と言わしめるのは、一切の筆跡を残さないスフマート(ぼかし技法)による表現に他ならない)が微笑んでいる。

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2008年4月 9日 (水)

哲学方程式3点セット完成

Photo 理屈好き真理は嫌ひ道理欲し原理を求め無理にて倒る

(1)人生=損得+好き嫌い+原理(快楽、汝) <快楽から汝→社会へ>

この方程式にたどり着くまで3年かかりました。亡母に「おかあはん、あんた、人生は損得と好き嫌いだけやろ」と悪態ついたら天唾で我が身に降りかかってきた。以来、損得と好き嫌い以外に何があるんやろうと問い続けてきて、最近になってようやく、真理・道理・原理から原理関数が導出できた。
すなわち、『カテゴリカルヴァリエブル(分類別変数)』とすることによって多元主義ともつながるのだ。損得と好き嫌いは道理=コモンセンス、原理(X)により様々な原理を許容することになるのです。どうだ、参ったか。

そして、原理(快楽)だけだったのが次のような指摘を受けた結果、原理(快楽、汝)に変更。より社会への通路(多元主義)が開けるようになった。
うーん、理由らしい理由はあまりないです。「人生=」という所を見て、真っ先に思ったのは自我だったんですが、損得や好き嫌いという部分に多く含まれているように思ったので、自我を形成するには、やはり他者あってかなと思ったからですかねぇ?

(2)大人=教養+節度+情緒 <社会的大人になって世界共和国を目指せ>
これは民度の定義式を大人の要件に転用したものにすぎない。情緒を愛し節度をもって百姓根性から抜け出す教養を磨いているのが大人(公民)である。グローバル化の流れは止まない。ほんとうの明治維新(個レベルでの開国)が始まる。

(3)世界=事実世界+記号世界+価値世界 <価値は多元、世界は無限>
(1)(2)の背景にあるのがいつもの俺の三層世界論だ。木田元言うところの反哲学である。
現象(事実世界)の背後に真理も実在もない。現象のこちら側に我々は実在(記号世界)をモデルとして記号化しているのに、それが現象の背後にあるものだと思い込んでいる。同様に、真理は各人の記号世界の最大公約数として構成するものにすぎないのに、それが現象の背後にある本質だと思い込んでいる。

要するに、快楽原理から世界共和国へ、それを基礎付けるのが上記の方程式3点セットである。さあ、ローマへの道が見つかったぞ。

※写真の高速は首都高速5号池袋線(地図参照)。千鳥が淵沿いに半蔵門方向に歩き、写真撮影地点の橋(首都高入り口付近)を渡って北の丸公園側からまた千鳥が淵の桜を愛でるのがお勧めコースである(関心空間で紹介)。

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2008年4月 1日 (火)

現象学+構造主義=唯識論

Photo_2 現象の此岸の桜風に揺る

現象学というのは要するに「現象の背後に真理や実在があるとするのではなく、現象のこちら側(記号世界・価値世界)に真理、実在、論理のモデルを作るしかない」(真理より道理、実在より現象)という考え方である。そこで、その際に作られるモデルの客観性を保証するものは何かが問題となる。

この点、実在論(現象の背後に実在があるとするプラトン以来の考え方)では、外部世界の実在性・客観性がモデルの客観性を保証する根拠となる(フツーの考え方)。
ところが、構造主義科学論(科学は真理を追求するのではなく同一性を追求するのだ、と考える科学論)の旗手たる池田清彦はこれを否定する(池田清彦「細胞の文化、ヒトの社会 構造主義科学論で読み解く」所収「構造主義科学論から見た科学と社会」より)。

科学の客観性は外部世界の実在性により保証されているのではない←現象学、独我論
①現象をコトバに変換する時の規則の同型性→普遍性
(例)ネコより大きいよく吼える動物をイヌと呼ぶ(どの国語でも)
②コトバとコトバの間の関係規則の形式性。形式自体が客観的だから。(例)イヌはネズミより大きい。主語(イヌ。クマでもクジラでも入れ替え可能)、述語(「大きい」という関係規則)という形式自体が客観的


①は事実世界から記号世界に写像する際の同型性、例:どんな人でもまた国語でもおおむね同型な写像をしているということだ。そして、①より重要なのが②。記号世界の形式自体が客観的であり、これがモデルの客観性を保証する根拠となっているというのだ。

なんだか難しそうだけれど、数学を例に挙げればわかりやすい。ユークリッド幾何学は事実世界から抽象化写像して成立した記号世界の産物だけれど、①事実世界との同型性(円や三角形やその他の図形を想え)があり、②幾何学の表現形式自体が客観的(例:ピタゴラスの定理)なのは自明だろう。
つまり、科学の客観性が外部世界の実在性によって保証されず、科学内部の形式性により保証されることの代表例が数学(例:非ユークリッド幾何学、群論その他の抽象数学)なのである。
そしてまた、だからこそ、科学は数学をモデル化手段として使うのである(「自然は数学という言語で書かれている」ガリレオ)。こうした同型性や関係規則の形式性に着目するのがソシュール以来の構造主義である。

つまり、現象学(マッハ・ニーチェ→フッサール)は構造主義(ソシュール)と連携することによって、その科学としての客観性を得るのだ。ちなみに、池田清彦は構造主義から多元主義を導いている。

多元主義社会とは何か。それは、人々の恣意性の権利を最大限尊重する社会である。その唯一の規範は、人々の恣意性の権利を不可避に侵害しないことである。「それは様々な文化や伝統や生き方自体を擁護するのではなく、それらを擁護する個人の恣意的な権利を擁護する。」外部世界の(不変の)実在性を擁護する考え方は必然的に真理概念を擁護するため、文化や伝統の真理性を押しつけ人々を一元化しようとするが、このような真理概念を必要とせず多元的な価値を擁護する構造主義科学論は、だから多元主義社会と強い親和性をもっているのである。

記述するものとしての構造と記述されるものとしての構造の布置とを区別し、構造自体を擁護するのではなく布置を擁護するということが池田の主張する(構造主義的)多元主義である。例:君の主張には不賛成だが、君がそれを主張する権利は死を賭して守る。

そして、現代科学のモノ→コト転換を主張する竹内薫は「現代物理学の思想性は、量子重力理論という最前線の研究において、すべての「モノ」が消え去り、すべては「コト」になるのです。そこではすべての「非虚構」が崩れ去り、すべては「虚構」になるのです」と言う(量子はモノではなく波動かつ粒子というコト。電磁気もコト)。これも現象の背後に実在は無く、現象のこちら側に実在(記号世界)があるという現象学の妥当性(正しさではない)の証左である。

結局は、人間は人間の眼(構造)を通してしか事実世界を見られない(現象)という極く常識的な事に帰着するのである(これを俺は以前からモデル論的転回と呼んでいたのだ)。以上を小難しく表現すると表題の

 現象学+構造主義=唯識論(全てはコト)

となるのである。おお、仏教は既にプラトンを超えていたのである。

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2008年3月29日 (土)

民度=教養+節度+情緒

Photo 「日本の民度の低さは誰のせい?」質問でのコメントラリーのおかげで

  民度=教養+節度+情緒

という定義式ができた。ここに教養とは公民意識の確立=百姓根性(お上は自分たちを収奪するもの、その代わり、たかったりすがったりするもの)から抜け出すことを指す。そして、節度とは俺のお気に入りの「おいあくま」(怒るな威張るな焦るな腐るな負けるな)である。以上、今日の朝ネットの成果を記録しておく。

※写真は鎌倉瑞泉寺の庭で撮影した諸葛菜。三国志の諸葛孔明(しょかつこうめい)が出陣のさきざきでこの種子をまき、食糧となるよう栽培したことからの名だそうだ。花大根とも呼ばれるが、大根の花ではないから注意。「諸葛菜不安をもつて安とせむ」河原枇杷男。

 民草のひとりなりけり諸葛菜庭の一隅むらさきの映ゆ
 花大根人恋しさもうすれきて  

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2008年3月25日 (火)

共産主義失敗の原因は何だったか?

Photo ベルリンの壁崩壊1989年から思えばもう20年も経つんだあ。いったい、共産主義って何だったんだろう。今でも共産主義者を自称する人は共産主義「失敗」の原因は何だったか?きちんと分析・評価・総括すべきだろう。その総括もせずに共産主義者を名乗るのは知的思想的怠惰以外の何物でも無い。そこで俺がなり代わってエラソーに分析することにする。以下、失敗原因と思われるものを経済・政治・思想・組織の4分野別に考える。

(1)経済原理:統制経済の失敗
かつてのソ連経済に典型的に現れたように、国家に経済を統制できる能力は無かった。アダム・スミスは依然として正しく、市場経済=見えざる手に委ねるのが経済合理性・効率性実現の唯一の道なのだ。
もっとも、社会的共通資本まで神の手に委ねるのは現実的でない。特に、食糧・エネルギー・水・環境。石油資源の枯渇や世界的貧困(食糧問題)を思うと国家乃至国家連合更には世界政府による政策的介入無しでは人類存続も危ぶまれる。

(2)政治原理:一党(プロレタリア)独裁の失敗
これは(1)より小さな原因に見える。なぜなら、ソ連は経済より政治の自由化を急いで崩壊したのに対し中国は政治の独裁体制を維持したままで経済自由化でなんとか存続しているからだ。要するに、人民にとっては政治より経済。食えてるうちは多少の独裁でも文句を言わないからだ。
封建体制が長かったり民度が低い国の近代化にあたって開発独裁はある程度必須だ。明治維新日本も言うならば天皇制開発独裁だった。そして、敗戦後「民主主義」日本もバブル崩壊までは自民党利権開発独裁に政治的合理性があったと言える。自社55年体制崩壊後の政治的混迷は開発独裁に代わる政治原理を発見できていないということかもしれない。

(3)思想原理:マルクスレーニン真理一元主義の失敗
我が敬愛するショスタコーヴィチの音楽まで統制、弾圧するなんてソ連はサイテーの文化国家だった。政治原理は開発独裁であっても思想言論文化は自由市場というスタイルもあり得たかもしれない(原理的には矛盾だけれど)。経済、文化は自由化、政治は国家崩壊による争乱を免れるべく多極化をソフトに排除するというのが、中国共産党が採るべき賢明な道である(その道を目指しているだろう多分、無理だろうけど)。
ちなみに、マルクスレーニン真理一元主義は西洋近代プラトニズムの必然的な行き着く先だった。最早、一元主義に未来は無い。時代は多元主義を要請している(「真理より道理、実在より現象」参照)。

(4)組織の問題:権力は必然的に腐敗する
権力に腐敗は必然。中国共産党が上記の賢明な道を歩めたとしても、汚職腐敗による権力の内部崩壊の可能性は残る。日本の開発独裁の最後の砦=官僚制、公的部門の改革が必要な理由もここにある。キャリアシステム及び天下りから手をつけよ。

以上を整理すると、ソ連共産主義の失敗は(1)~(4)の全てが原因、とりわけ(3)思想原理:マルクスレーニン真理一元主義の失敗が大きい。この点、実事求是、百家争鳴の経験がある中国共産党(結構、プラグマティズム、功利主義)は一見しぶとそうだが、(4)組織の問題:権力は必然的に腐敗するが弱点で、思想言論文化の自由市場をつくれなくていずれ倒壊する。
そして、日本は、公的部門改革と多元主義文化構築及び人口減少を経て世界のトップを走る中規模経済・文化大国になるだろう(と思いたい)。日本の未来は(1)反帝国主義(2)自由主義(3)多元主義(4)社会的共通資本の重視と共にあるのである。

以上、(1)「共産主義失敗の原因は何だったか?」(2)「資本主義破綻の想定できる理由を述べよ」です。まず、ブログで論点整理してからアバウトミーするつもりです。(1)は中国共産党独裁体制の賞味期限切れはいつかという問題にもつながるように思っています。
資本主義破綻の想定理由は社会的共通資本破壊(エネルギー・水・食糧・環境)だろうなあ。ちなみに昨日の日経夕刊コラムに伊藤忠丹羽会長が「20世紀は石油とキリスト教の世紀、21世紀は水とイスラムの世紀」と書いてます。なかなかの知識人みたいやなあ。

構想の第一弾であった。殺戮の二十世紀を過ぎて来しわれらの未来われの晩年

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2008年3月20日 (木)

真理より道理、実在より現象

Photo 現象の背後に真理も実在もない。現象のこちら側に我々は実在(記号世界)をモデルとして記号化しているのに、それが現象の背後にあるものだと思い込んでいる。同様に、真理は各人の記号世界の最大公約数として構成するものにすぎないのに、それが現象の背後にある本質だと思い込んでいる。

こうした事態をニーチェは誤謬とみなした。「真理とは、それがなくてはある種の生物が生きていけないような、一種の誤謬である。
これは、マッハの<真理と虚偽>の区別を廃し、<認識と誤謬>という区別を立てたのと軌を一にする木田元「マッハとニーチェ」)という。フッサール現象学に至る前史としてマッハとニーチェがいた(その背景にダーウィン「進化論」がある)というのがこの本の主張だ。

これを俺のいつもの三層スキーマ(構成主義的唯物論)にあてはめるとこうなる。

   価値世界   記号世界    事実世界
    真理       論理    道理(スピノザの神)    
    構成       実在    運動(生成消滅)

そして、荒谷大輔「西田幾多郎~歴史の論理学」(西田をタルスキ、デイヴィドソンに絡めて論じたのがこの本のミソ。でも、真理や実在を現象の背後に設定している形而上学のような気がするなあ)から西田の晦渋な文章を孫引きしよう。

事実の世界は私と汝とが直接に相対し相話すことから始まる、すべて実在界と考へられるものは此に基礎附けられねばならぬ。デカルトのコギト・エルゴ・スムにも、単なる内部知覚といふ如き事を離れて自己の内に絶対の他を見、事実が事実自身を限定するといふ意味がなければならない。

これを俺流にわかりやすく翻訳すると次のようになる。西田もまた現象学を語っていたのである。

真理(価値世界)は過去現在未来の無数の記号世界(私)の最大公約数である。従って、真理の範囲を確定するためには「私と汝」のコミュニケーションが必要となり、実在もまた「私と汝」による基礎付けを要するのである。つまり、「自己の内に絶対の他を見、事実が事実自身を限定する」というのは、このような無数の記号世界の相互限定の働きを言うのである。絶対無とは無数の記号世界の相互限定(最近流行の言葉では創発。つまりは創造)のことである。

ということで哲学はプラトンの呪縛(イデア=真理一元論)から解放された。真理より道理でものごとを語るという常識にようやく立ち戻ったのである。以上、左翼(多元主義)の哲学的基礎付けのつもりである。真理一元論は親の仇なり。

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2008年3月 5日 (水)

物語、結晶、記号

Photo_4 昨日、ショスタコ8番を聴いていて「これはベルクと違う、タコには物語がある」と思った。そして今朝ネット逍遥の後の音楽にゴールトベルク変奏曲@シュタットフェルトを選んで最初のアリアに浸っていると「おお、バッハは結晶やんかあ」と気づいた。そこで、かねて用意のモーツァルト=記号の音楽(グレン・グールド)と合わせると俺のお得意、三大噺「物語、結晶、記号」ができあがった。そして、これは(実になんと)俺の三層スキーマ「世間、魂、社会」と符合するのである。まとめてみよう。

    物語         結晶       記号
 ショスタコーヴィチ    バッハ    モーツァルト
    世間          魂         社会

われらの魂は、世間(直接世界)で喜怒哀楽愛憎損得の物語を編みつつ社会(間接世界)を記号として生きる。それがわれらの人生である。最後は結晶として死にたいね。

  通勤者を記号の列と呼ぶ詩あり記号の中に我の個もあり

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2008年3月 4日 (火)

思無邪ともごもご

Photo_2 人間はおしなべて邪念の塊。そんな邪念は社会を形成しなければ生きてはいけぬ。そして、形成された社会は平和に維持継続するのが結局はコスト安。だから、社会の運営は公正であることが要請される。この事態を邪念側から見ると「思無邪」ということになる。詩経にある言葉だそうだ(ここから書も勝手拝借転載させて貰った)

十年以上前に鹿児島出張の合間に磯庭園(島津別邸)で見かけた言葉だ。最近、大河ドラマ「篤姫」で映されたシーンが何回か出てきて思い出した。

ところで暇つぶしに日本版twitterなるもごもごに入会してみた。日記代わりには使えそうだなあ。お友達は別に欲しくはないけど。

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2008年2月28日 (木)

相対論、不確定原理、実在論

スリリングな本に出会った。橋元淳一郎「時間はどこで生まれるのか」。時間は生命(意思)と共に生まれたというのがこの本の結論であるが、この本のおかげで相対論がイメージできたので記録しておく。

Photo_4 普通、我々はいかに離れた場所にいても「現在」を共有していると考えている。
たとえば、東京の午後24時という「現在」は時差を勘案すればニューヨークの午前10時となり、同じ「現在」ということだ(こういう理解がニュートンの絶対時間空間)。
しかし、ほんとに同じ時刻かどうかを確認するためにはなんらかの手段で通信することが必要だ。そして、通信といえども瞬時の交信はあり得ず少なくとも光速のディレイが生ずる。この光速のディレイのために「現在」であることを確認できない時空のエリアが生ずることになり、それを著者は非因果的領域と呼ぶ。
過去は現在に因果を及ぼせる領域、未来は現在が因果を及ぼせる領域であるのに対し、非因果敵領域は光速より速いものは無いので私の現在になんら因果関係を持ち得ない領域ということだ。

Photo_3 つまり、私と「現在」を共有するのは「あの世」非因果的領域のみ、言い換えると、今という瞬間を私は誰とも共有できないということである。Photo_5 光速が有限であることの発見はこうしてニュートンの絶対時間空間論を崩してしまうのである。光速の有限性(及び光速より速いものは存在しない)の発見は、空間と時間とが独立ではなく相互に関係していることを示したのである。

ところで、光速は有限であると同時にどの慣性系から見ても一定である(光速不変Photo_6の原理:真空中の光の速さは光源の運動状態に無関係に一定である)。光速に近いロケットから見ても自転車から見ても光の速度は同じでなければならないのである。ちなみに、光以外のもののスピードは自転車から見るのと高速道路を走っている自動車から見ると異なって見える(日常生活で我々が経験する相対速度:時間軸の傾きの差)。 図のβ(時速70キロの自動車)からα(時速100キロの自動車)を見るとお互いの時間軸の傾きの差だけ(時速30キロ)に見える。

Photo_8 この光速不変の原理を説明するためのアインシュタインのアイデアが画期的だった。すなわち、動いている人の座標系は時間軸が傾くだけではなく、空間軸も傾くとした。これを数学的に表現するとミンコフスキー空間(時間軸は実数、空間軸は虚数)となる。このあたり、説明がややこしいので省略する。Photo_7 図を見てイメージされよ。

以上の記述で、時間と空間とは密接に関係することがわかってもらえただろうか。更に、ミクロの世界(量子力学)では時間も空間も消滅するという。ミクロの世界では不確定性原理(ある粒子の運動量と位置を同時に正確に知ることは、原理的に不可能)が妥当するから、電子一個について時間を議論することは無意味(電子には位置や速度が付随していない)、更には因果律も排中律も無意味となる(二重スリット実験:単一の粒子が「広がった空間の確率分布を支配する何か」の性質を併せ持つという一般的な直観に反する事実を認めるしかない)。

ああ、このあたりも説明が難しいなあ(俺も理解してないんだもん)。要するに、素粒子は粒子であると同時に波(空間の確率分布という表現が正しそう)だから、モノというよりは空間に偏在するコトと理解して時間、空間が付随しないということを納得するのが近道である。

著者は、哲学にも一歩踏み込んで「真の実在は物質(モノ)ではなく運動(コト)」と主張している。その傍証として、運動(速度)=距離÷時間の方程式について次のように述べている。

暗黙のうちに距離と時間が基本概念、速度はそこから導かれる派生的な量とみなす思想は、デカルト以降に生まれた人間理性を優先する思想であって、アリストテレスに見られるように生命の直観ではまず運動(速度)が先にあるのである。

上の文を俺の概念で表現し直すと、時間も空間も記号世界の産物、事実世界にあるのは運動(確率分布)のみ。運動(速度)=距離÷時間の方程式は距離、時間という記号を利用した記号化するための式ということになる。

以上をまとめると、相対論→時間も空間も記号、不確定原理→ミクロ世界にまで落とすと真の実在は運動(コト)というのが結論である。わかったかなあ、わからんかったやろなあ。

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2008年2月27日 (水)

西田幾多郎の真実

Photo 図書館で河西善治「西田幾多郎の真実」という本を見つけたので期待して読んだ。「独創的」哲学者の剽窃と戦争協力の構図という副題の「戦争協力の構図」の方は言い古されたテーマだからあまり期待していなかったが、この本の第一章で宮台真司、廣松渉、今村仁らを

社会主義がこけてマルクスがオシャカになって久しいが、このマルクス主義のガラパゴス島ではまだ追善の読経が続いている

と批判した後で

なぜ経験が認識に転化しないこうした信仰告白が繰り返されるのか。
私はこれをシュタイナーの「自由の哲学」にならって、知情意という人間の心的能力における思考(知)と感情との関係の問題として考えてみた。
このことによって、「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(宮澤賢治「農民芸術論綱要」というユートピア(あるいはオルタナティブ)を実現するための思想形成の端緒がつかめると考えたからである。


というところに期待したのだ。つまり、サヨ(旧左翼)が抱えていた、「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という理念ないしエエカッコシイと利己心(そこから来る権威主義、岩波朝日文化を想起せよ)との分裂を知情意という人間の心的能力における思考(知)と感情との関係の問題として解明してくれるのではないかと期待したのである。

ところがどっこい、続く章では、西田の純粋経験はシュタイナーの「ゲーテ的世界観の認識論的要綱」からの剽窃とか(ウィリアム・ジェームズからかなりの影響を受けているというのは以前から言われていること)西田が戦争協力文章を自ら進んで書いたのだという表層的なことばかりで失望した。
旧左翼(心情左翼と呼んだ方が適切か)の理念と利己心との相克はシュタイナーを持ち出すまでもなく知情意の分裂(知識では同胞愛、情では利己心)ということで解決済みなのかなあ。機会があればシュタイナー(入門書、たぶん)を研究してみよう。

そんなこんなで欲求不満解消するべくアバウトミーに質問「サヨのここが嫌い」してみたけど、回答の集まりが悪い。アバウトミーって心情左翼の純情人が多いようである。

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2008年2月24日 (日)

則天去私個人主義宣言

Photo 今朝のアバウトミー、付いたコメントが21件といつもよりちょっと多い目。いろんなことを思いながらレスした。ここに記録すべきものをいくつか。

まずは歌を頂戴したことをログらなきゃなあ。俺の質問「日本はいつまでアジアの孤児なのだろう?」に「恐縮と お茶を濁して 粛々と 無知ひけらかす サヨク老害」と頂戴したので「無知を知り人の言葉を受け止めて左翼を目指す我は老害」と返歌した。有り難いことである。この方、前にも「目を瞑り耳を塞いで口は出す 三国人とサヨク・マスゴミ」と歌コメされている。なかなかの達人だ。

次は戦後日本「発展」の要因分析。これも俺の質問「在日問題について」でのコメ・ラリーで「民度の高さ、集団主義文化、戦後改革成功が戦後日本「発展」の要因と言えます」という認識に到達した。問題はこれら要因が既に賞味期限切れになっているということだ。
民度は落ち、集団主義文化は行き詰まり、戦後改革(とりわけ農地解放による活力と人口流動性)は遠い過去の歴史になってしまった。教育改革(若者に住み難き国梅の花)と地方活性化と公務員制度改革(キャリアシステム、天下りの廃止)が日本再生の鍵と思う所以だ。

最後は漱石。「貧しさとは何だろうか?」のラリーで「日本は非キリスト教社会での新しい個人主義を目指している社会だ」との認識に至った。「自己本位と則天去私」なる説教質問を作ってしまったけれど、漱石は集団主義文化と西洋近代個人主義との相克を則天去私で止揚したかったのだと思う。そこで、俺も漱石にあやかって則天去私個人主義を目指そう。いつかお召しが来る日まで。

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2008年2月20日 (水)

週刊ウィトゲンシュタイン

Photo アバウトミーで知ったねこてつさんという方が週刊ウィトゲンシュタインという記事を書いていらっしゃる。先日知ったばかりでちょっとずつ拝読中。その中で、今日読んだ記事「私の言語の境界が、私の世界の境界を意味する」の解読が秀逸だったので勝手一部転載させてもらう。

 私たちは言葉を使って考える。ところで、考えることのできないも
のは、考えられない。だからそれが言語の限界だ、というのではなく
て、ウィトゲンシュタインは「世界の境界だ」と言うのです。ここで
またまた ? …

 実例をあげて考えてみましょう。「無」を考えることは可能か。

 「無」というと、空間に何もない状態を思い浮かべちゃいますね。
でも、それでは完全じゃない。空間が存在している以上それは「無」
とはいえない。では、その空間を取り払ってみると、「無」は限りな
い小さな一点に収斂して、消え失せる。それでおしまい。それ以上、
考えられない。絶句。これが言語の境界ってやつなんです。


記事はまだまだ続くのだけれど、要するに「無といっても空間が存在することが前提だろう。空間を取り払えば無だって消失するではないか。だから、私の言語の境界が、私の世界の境界を意味するんだよ」ということだと理解した。

俺の世界的微小「論考」入門では、このあたりのことをこう書いている。

要するに「論考」は、あなたがあなたの脳内につくる世界のモデルに関して、どこまでが万人共通でどこからが存在論的経験と価値観の相違に応じて異なるのかを示してくれる。人はどこまで解りあえるかという問題提起の書だったのである。だから、語りえぬものについては、沈黙しなければならない。言い換えると、語りうるものについては明晰に語らねばならないのである。

思考は言語に頼らなくては不可能。そして思考は脳内に世界モデル(記号世界)をつくる。そしてまた、私たちは私たちそれぞれの記号世界に照らし合わせて事実世界を理解しようとする。だから、「私の言語の境界が、私の世界の境界を意味する」のである。言い換えると、経験は言語で限界づけられているということである。

ああ、でもこれは事態の反面でしかないなあ。経験は言語で限界づけられている、すなわち、物(言語)が我を限定するけれども、他方で、我が物(言語)を限定する。つまり、

物が我を限定する世界の中にあり、同時に、我が物を限定し世界を作り出すということだ。行為・身体を純粋経験に付加することにより西田は、世界内存在であり同時に世界を変革する人間の歴史性社会性を実在を説明する基礎として据えたのである。

ということで、やっぱり、俺は西田幾多郎に戻るのである。

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2008年2月 9日 (土)

純粋経験から行為的直観へ

Photo エラソーに「西田幾多郎×永井均」なんかを書いたけれど、では、西田哲学をどこまで理解しているかというと相当に心許ない。例えば、西田の「行為的直観」という概念である。西田は行為的直観を次のように規定している(藤田正勝「西田幾多郎」より孫引き)。

我々は行為によって物を見、物が我を限定すると共に我が物を限定する。それが行為的直観である。

これだけの簡潔な文章では何を言っているかわからない。これを(1)行為によって物を見(2)物が我を限定すると共に我が物を限定という二つに分解して考えよう。

(1)行為によって物を見
るとはどういうことか

西田の出発点は純粋経験である。純粋経験は「色を見、音を聞く刹那」まだ私は存在しない。主客未分の状態。と俺は書いたけれど、もっとわかりやすい記述を見つけたので転載させてもらう。西田幾多郎の「行為的直観」―森田療法的アプローチからの分析―@大谷孝行からの転載(これは必読。俺の駄文より余程「行為的直観」が理解できる)。


「純粋経験」とは、我々が何らかの反省を加えたり、判断によって対象を把握しようとする以前の、「未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している」状態である。「物我相忘じ、物が我を動かすのでもなく、我が物を動かすのでもない、ただ一の世界、一の光景あるのみ」であるのが純粋経験の境地である。
西田の「純粋経験」は、森田療法で言う「なりきる」という事態と同一と考えてよい。


要するに、「色を見、音を聞く刹那」=没我の状態、すなわち、対象を捉えてはいるが分析的思考が始まる前の状態、それが純粋経験である。西田は全ての実在を純粋経験から説明したいとして「善の研究」を書いた。

ところが、純粋経験は「色を見、音を聞く刹那」、すなわち、受け身で物を「見る」ということに止まっている。
われわれは世界の外に立って世界を眺めているのではなく、物との必然的な関わりの中に立っている。身体をもち、行為する、まさにそのような人間のありよう藤田正勝「西田幾多郎」)が純粋経験では捉えきれていない。西田はそう、考えたのである。それが、行為によって物を見るということだ。

下世話な表現をすると「単に見るだけでは済まないでしょ、見たらやる気になるだろうし、そもそも、やる気で見てるでしょ」ということだ(よからぬ想像をすればワカリヤスイ)。見ることとやる気とは一体、これを行為的直観と呼ぶのである。

(2)物が我を限定すると共に我が物を限定するとはどういうことか

実在を説明する基礎を純粋経験ではなく行為的直観に置くという転換は、行為する身体を歴史的社会的に捉えるという転換をもたらした。藤田正勝「西田幾多郎」から西田を孫引く。

私が此に身体というのは単に生物的身体をいうのでなく、表現作用的身体をいうのである。歴史的身体を意味するのである。

端的に言うと、行為する私は生物的私ではなく、歴史的社会的私。私の行為は歴史や社会の中で紡がれた行為ということだ。これだけではわかりにくいだろうから、西田幾多郎の「行為的直観」―森田療法的アプローチからの分析―@大谷孝行の記述を借用転載させてもらう。

「行為的直観」が「純粋経験」の立場と異なる最大の特徴は、前者が人間存在の根源的な社会性と歴史性を明らかにしようとしている点に求められるのである。
人間存在を社会性と歴史性において捉えること、つまり時間的にも空間的にも関係性の網の目として捉えることは、人間を具体的実相で捉えることであり、又、自己の閉鎖性・孤立性を打ち破ることでもある。西田の「行為的直観」にあって「純粋経験」にはない視点、それは人間を歴史性と社会性において把握しようとする視点である。単に一個人の無我夢中、なりきっているという心理状態を描くだけではなく、自分の存在そのものが根源的に帯びている歴史性、社会性を自覚することである。人間を社会内存在、歴史内存在として捉える立場からは、個人の孤立的な営みはすべて抽象的な一断面として捉え返されることになるだろう。


やる気で物を見、見てやる気になった俺は孤立した俺ではない。
時間的にも空間的にも関係性の網の目の中でやる気になっているのだ。物が我を限定する世界の中にあり、同時に、我が物を限定し世界を作り出すということだ。行為・身体を純粋経験に付加することにより西田は、世界内存在であり同時に世界を変革する人間の歴史性社会性を実在を説明する基礎として据えたのである。

「人が経験するのではない。経験が人をつくるのである」という西田の言葉はこうした歴史性社会性を踏まえると理解が深まるし、俺の「心は社会的現象(「私」=身体(物理的化学的現象)+心(社会的現象)」というのもこれにつながっていたのかと自画自賛したい。

かくして、俺は、行為的直観を完璧に理解したぞ。大森荘蔵の立ち現れ一元論なんか行為的直観の焼き直しにすぎないではないか、野矢茂樹君

荒谷大輔「西田幾多郎-歴史の論理学」が面白そうだ。いろいろな西田論の中でもようやく「絶対矛盾的自己同一」や「絶対無」といった奇妙な概念に、了解可能な枠組みを与えてくれた。ラカンの現実(界)の議論を経由するのは有効な通路ではないかと思う。ということである。図書館にリクエスト済み。

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2008年2月 6日 (水)

婦長はなぜ笑わなかったのか

Photo_2 BSで放送していた「カッコーの巣の上で」を観た。
刑務所の強制労働から逃れるため精神異常を装ってオレゴン州立精神病院に入ったマクマーフィは、そこで行われている管理体制に反発を感じる。彼は絶対権力を誇る婦長ラチェッドと対立しながら、入院患者たちの中に生きる気力を与えていくが……。

この手の映画、あんまりタイプではないのだが(シンプルなアクション映画が俺は気楽で観やすい)、「60年代の精神病院を舞台に、体制の中で抗う男の姿を通して人間の尊厳と社会の不条理を問う」という大上段のテーマを振りかざした映画なんだろうかという疑問が湧き、最後まで観てしまった。

というのは、ルイス・フレッチャー(初めて名前を知った)演ずる婦長ラチェットが妙に生々しく肉感的に感じたからだ。絶対権力を誇る管理体制の象徴に似つかわしくないと思ったからだ。

この(肉感的と俺が勝手に感じる)婦長、全く笑わない。患者に対する一片の同情心も見えない。
脱走を試みた主人公(ジャック・ニコルソン)が引き起こした事件のあおりでマザコン青年患者が自殺してしまい、それに怒った主人公が婦長の首を絞めて(未遂)、映画のラスト近くで首にギブスをはめた婦長がようやく(引きつった)笑顔を患者たちに向けるシーンが出てくる。

人間の尊厳と社会の不条理を問う」などという観念的なテーマではなく、この笑わない婦長が、なぜ(引きつりながらも)笑うようになったかがテーマではないのかなあ。首を絞められるという恐怖経験から防衛表情としての笑いを浮かべるようになったのか、それとも、少しは患者に同情心や共感を覚えるようになったのか、映画は全く手がかりを与えてくれない(製作者はテーマと考えなかったのだろう、多分)。

では、なぜ婦長は笑わなかったのだろう。
俺なりに勝手に考えてみると、彼女は、自分は正しい、患者たちのためにも同情や共感は不要で病院の治療方針に従っていればそれが患者のためになると信じていたのだろう。
正義と真実が自分の側にあると信ずると人は、相手に共感や同情を感じない。だって、相手は敵だもん。相手は操作の対象にすぎない。自分が相手によって操作されることなんか夢にも思わない。そこでは共感も同情も不要である。

こういうのを理性の暴走と呼ぶ。せめて、正義と真実は一致しないということぐらいは思って欲しいなあ。自分に正義はあるけれど、真実は掴んでいないかもしれない。その謙虚さがあれば、お互いに人間、相手によって教えられることもある。だから、まずは笑顔で接して相手に心を開かせたい、その上でほんとうのことを知りたい、となるのである。

ということで、「
人間の尊厳と社会の不条理」以前に理性を笑顔で補完するというテーマがある。理性を通せば問題解決という単純な話は無い。人生、まずは笑顔とちゃいまっか。

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2008年1月30日 (水)

「美←善・金←真(理)」スキーマ発見

アバウトミーで「人生は色事と金事、どう思う?」という質問をしたおかげで、真善美の相互関係、及び、これらの価値と金銭との関係が整理できた。

おかげで考えが整理できました。人生の最大の価値は美(エロス)にあるけれど、美の享受のためには社会が善(清潔安全自由公正)であることがある程度必要。そして個人的には金銭も無視できない(人生やっぱりサムマネー)。そして善の維持と金銭の確保のためには合理的思考が個人的社会的に鍛えられていなければならない。
美←善・金←理という構図にたどりつきました。

「エロスより出でてエロスに環り来む意味を求めてめぐりし後に」なる俺の人生論歌の注釈にしよう。

ところで、真善美とカント(「世界的微小カント入門」参照)の関係が気になったので検索したら次の記事に出会った。

「真善美」と聞いてすぐに思いつくのは、プラトンやカントといった西洋哲学である。例えばカントの『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』という所謂「三批判」※1は真善美という価値にそれぞれ対応して書かれた書物である。もしかすると、日本における西洋哲学の受容過程で「真善美」が訳語として作り出されたのかも知れない。

なるほど。世の中にはいろんなことをご存知の方がいらっしゃる。ネットのお陰だ。

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2008年1月 5日 (土)

なぜネットを信頼するのだろうか

Photo アバウトミーで質問「2008年を漢字一文字であらわしなさい」に対して「信 偽の反動です。冗句です。」と回答したことからお喋りが思わぬ方向に発展して「そうですね。顔も身体も見えない相手とこうして記号だけで話しているというのは恐怖かもしれませんね。まあ、あたしが異星人というのは100%ありえないとしても。それでも、こうやって話すのは何か新しい発見とかできごとが欲しいからだと思います(私の場合)。」とコメントしてしまった。

そうだよなあ、俺も1995年パソコン通信以来ネットで遊んでいるけど、ネットの向こう側に対する信頼って何だろうなあと考え込んだ。そこで質問「ネットの向こう側が怖い?」を作った。どんな答えが返ってくるか、淡く楽しみにして。

さてそこで、朝の一句の巡回コースで俳句モードに切り替えていたところ、「言葉には、現実を支配する力があるもんね。」「でも一方で、言葉には現実と共生する力もあると思うのさ。言葉にすることは、認識することだもん。」というセンテンスに出会った。
そうだよなあ、言葉の力=現実支配と現実との共生だよなあ。うまいこと言うなあ、と思っていたら質問「ネットの向こう側が怖い?」に対する俺の回答が出来てしまった。

ネットの向こう側は確かに怖い。怖いけど何か新しい言葉に出会える可能性がある。新しい言葉に出会うことによって現実と共生する力を得られる可能性がある。だから、俺はネットしてるんだ。

つまり、ネットの向こう側は事実世界では無くて全くの記号世界。そこで新しい記号(言葉)に出会って事実世界と共生する力を得る。それがネットの可能性でありネットに対する信頼ということだ。

実際は口論争論喧嘩、与太話など色んなことがあるけれど、所詮全ては言葉だけの世界。言葉だけの世界だけれど、言葉には現実を支配し現実と共生できる力がある。それを頂戴して現実を生き続けたい、それがネットに対する信頼を生んでいるということに気づいた朝であった。

※写真はららぽーと横浜で出会ったコンサートの模様。尺八、キーボード、ドラム、ベースという面白いクァルテットだった。

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2007年12月30日 (日)

自然、必然、偶然そして運命

Photo_2 きっかけは以前に作った質問「偶然と運命の関係や如何?」に偶々コメントがついたこと。そこで、恐竜の滅亡の話やニュートン力学を振り回していたら、質問「自然界に偶然はあるか?」が出来た。「全ては必然だけど、人間が予測できないことを偶然」を一応の俺の回答としていたら「人間がいまこうしているのも、偶然に偶然が重なった結果だと思います」というコメントで揺らぎ発生。

そうか、「自然=必然、偶然は必然の反対概念にすぎない」というのは言いすぎで「自然=偶然、必然は偶然の反対概念にすぎない」と考えるのが自然だなあと思うに至った。理由は、
(1)必然は結果論というより、ものごとを説明するための枠組み。因果関係も同じ(因果関係は自然に内在するものではない)。
(2)私は神様の贈り物。ここに信仰への道がある。俺は歩まないけど、多分。
ということだ。(2)についてはもう少し注釈が必要で、自然の歴史とか俺のこの人生などという一回こっきりのものに必然という色を塗るのは不自然、偶然のカバーがかかっていると思うのが自然ということがある。また、「私は神様の贈り物」というのは以前、バート・ランカスターの映画「終身犯」を観た感想を引きずっている。


そこで、質問「自然、必然、偶然の関係を述べよ。余裕があれば自由意志についてコメントせよ」に至った。アバウトミーを頼りに俺は哲学しているのである。

さて、この話題はカンブリア宮殿を経ていずれは「運命=自然、自由意志の否定(スピノザ)」につながるがそれはまた後日後刻。乞うご期待。

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2007年12月22日 (土)

心と魂

実は嬉しいことがある。というのも、右サイドの「人気記事ランキング」(たいしたアクセスではないから人気記事というのもおこがましいけど)に「西田幾多郎×永井均」が定着していることだ。この記事、ちょうど一年前に書いたものだが、「西田幾多郎」で検索してアクセスされるケースが多いようだ。一年前の記事をいまだに読んで頂いていること、そして、俺の哲学総まとめになっているこの記事にアクセスして頂いていることが嬉しいのだ。

そこで、この記事のエッセンスを下のように簡潔にまとめてみる。問題は、要するに「私とは何か」ということだ。

  記号世界(言語経験)        事実世界(純粋経験)
   「私」=言語化社会化された私        <私>=具体的実存
      心                          魂

私は「私」=心と<私>=魂の統合。言語化社会化された私(心)と、いまここに何故か生きているこの私(魂)とが私をつくっているということだ。

「三つ子の魂百までも」と言うけれど、人は魂(精神)を持ってこの世に生まれる。生まれた後に言語を修得し、自分と他人の区別を知り更には社会的訓練を経て大人になっていく。この過程が精神の社会化すなわち社会的現象としての心の形成過程だ。
一方、魂はそうした心の形成過程を見つつ、心と葛藤しつつ生きつづけている。社会化し得ない精神(いま、ここに生きている俺=自我と表現してもよい)が魂だ。

ということで、

 私=身体(物理的化学的現象)+魂(精神的現象)+心(社会的現象)

上の単純な等式に俺はたどりついたのである。ああ、この私中毒よ。

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2007年12月14日 (金)

美しく老いるための三要素

Photo_2 「遊び心」という言葉がちょっと気になっていたところ、「あなたは本当のあなたですか?」という質問に出会ってやりとりしていたら、アイデンティとは揺らぎのことではないかと気づいた。
自己同一性というと何か固い芯のようなものをイメージするけど、そうではなくてもっとしたたかでしなやかなもの、それが揺らぎ=アイデンティではないだろうか。

とすれば、「自己と他者の揺らぎを楽しみ何事も楽しもうとする態度」が遊び心ということになる。そして、この遊び心が

(1)自分をゆるす(自己肯定→安らぎ)
(2)神と世界をゆるす(運命に振り回されない)
(3)人間をゆるす(他者との協調)
(4)社会をゆるす(社会に寄与)
というスピノザの赦しの哲学
にもつながる。

つまり、肯定(愛)の基盤のひとつが遊び心になると俺は連想ゲームを楽しんだのである。

さて、連想もここまで来ると、以前から考えていた美しく老いるための三要素=清潔・誠実・洗練の洗練を洒脱(遊び心)に置き換えねばならない。美しく老いるために俺は、清潔、誠実、洒脱でありたい。

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2007年12月 9日 (日)

記号世界論入門

Photo_2 アバウトミーに「数は実在するか?」という質問を出した後に、その当然の延長線上の質問「実在とは?」を出してみた。そして、これに対する俺の答えは概念と実在とは図と地の関係。全ては記号である」である。この答えを読んでもらうと俺の記号世界論をひととおり理解してもらえるなあと自己満足した。右のウサアヒルを眺めながら読んで頂けるとチョー嬉しいのである。

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2007年12月 2日 (日)

構成主義的唯物論者宣言

Photo_4 たったいま、思いついた。構成主義的唯物論が左翼を甦らせる。これもアバウトミー「いのち」って何?のお陰だ。

構成主義的唯物論の具体的内容は「心の場所化とモデル論的転回が哲学の脱構築(唯物論への回帰)をもたらす」を参照。我ながらよく書けている(俺が言わなきゃ誰が言う)。我が哲学の到達点だ。

※相場の無い日曜日、今朝は充実していた。俳句伝統派にめぐり合えたり、俺(情報)は死なないことを発見したり、「穏やかな」朝である。

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俺(個体)は死ぬけれど俺(情報)は死なない

Photo_2 アバウトミーで「いのち」って何?という質問にめぐり合ってお喋りしているうちに

ウィルス(情報)に死は無く個体(細胞)に死はあるんだ。

というセンテンスを書いてしまった。そうか、俺(個体)は死ぬけれど俺(情報)は死なないんだと一瞬思ったけれど訂正、やっぱり俺(情報)も死ぬんだ。俺には子が無いから。

サミシーイなんてウソ。子供がいたらこんな極楽やってないもんね。

※画像はあたしの極楽 極楽の王様、あたしは偉い!から勝手転載感謝です。

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2007年11月20日 (火)

あなたがあなたである理由を述べよ

Photo_2 ガキの頃から不思議だった。「なんで俺は俺なんやろ?」「なんでこの俺に生まれて来たんやろ?」と。この疑問を数年前にある女性に話したら「変な子やったんやねえ」と鼻で笑われてしまった。
思うに、こういう疑問を持つ人と持たない人とに世の中は二分されるのだろう。疑問を持つ人の典型が偏屈哲学者永井均。彼はこの疑問を「開闢の奇跡」という大げさなネーミングで呼んでいる。

そこで、アバウトミーに例によって質問してみた「あなたがあなたである理由を述べよ」。皆さんとのお喋りで啓発されてたどりついた俺の答えは「あなたがいるからわたしがいる」である。

私たちは三つの世界→「事実世界」「記号世界」「価値世界」を生きている。そして、「私」とか「あなた」(代名詞)は記号世界の存在。同様に、心もその大部分が記号世界における現象(心は社会的現象)。だから、あなた(即ちあなたの心)があなた(即ちあなたの身体)である理由は「あなた」(代名詞)が記号であるからであり、「わたし」(代名詞)があるからであるということになる。Photo_3

もっと端的に言うと、「事実世界」と「記号世界」とは地と図の関係なのだ。そして、あなた(即ちあなたの身体)とあなた(即ちあなたの心)とも地と図の関係。地に着目すればそれは身体、図に着目すればそれは心。このことを心身一如というのである。

ああ、俺はデカルトの心身二元論を超えてしもうた。この屁理屈好きめが。

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2007年11月 7日 (水)

正義=個人的正義(仁義)+集団的正義

「正義ってなんだろう?」という質問に対して「義を尊ぶことでは?」と答えてくれた方がいらして何回かのラリーと俺の中での発酵を経て、タイトルの方程式に到達した。

すなわち、正義の根本には、まず、個人的正義が無ければならない。そして、個人的正義とは仁義(人には仁をもって接し、義を守って生きる)である。そして、その上での集団的正義の問題である。
そこで集団的正義だが、これについてはロールズの正義論をヒントにした俺の定義がある。すなわち、「正義とは:基本的自由を保障した上で、社会の富を公正に配分すること」である。実は、この定義は経済的正義に偏しているのが気になっていた。正義を個人的正義と集団的正義に分割して、ロールズの正義論を集団的正義に限定することによりバランスのとれた正義論になったと自画自賛である。

正義とは、個人として仁義を守って生きてその上で集団的正義を実現することである。そして、集団的正義は自由と平等(公正?)の問題とリンクする問題であって、他者の自由を尊重した上で世の中の富(物質的精神的)を公正に配分することである。
だから、仁義なき集団的正義、自由・平等・公正を無視する集団的正義は凶器となる。オウムを想起し、国家主義的正義(大日本帝国、アメリカ帝国主義のイラク侵略)を思えばそれは明らかであろう。

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2007年11月 4日 (日)

感情=欲望・喜び・悲しみ+情感

スピノザは感情の基本要素は3つ(欲望・喜び・悲しみ)であるとしている。なるほど、そういうことかとずっと思ってきたが、アバウトミーで(戯れに)「男と女、どちらが強い?」という質問を出したら、「ロマンチック」ということについてこんなコメントがついて愕然とした。

動物として生きるのには不要な感情。
人間として生きるのには余禄として必要な感情。
例えば、サルから進化しかけた人類の祖先が、死んだ仲間に花を手向けた事とか。「もののあわれ」に宿るもの。
夢見る乙女にしてもそれは男性からの主観であると思いますよ。


そうか。欲望・喜び・悲しみの他に人間には「もののあはれ」なるものがあるなあ、とPhoto_6気づ いたのである。 これを何と呼ぶべきか、とりあえずは「共感」と名づけたが、どうもしっくりこない。そうしているうちに今度は、「生き方としての『川の流れのように』とは?」という質問に出会った。
この質問に対し、「本能のおもむくままに」選択肢を選んだら「ケダモノとの差はどんな部分でしょうか?」「侘び寂びと同じですか?」と逆質問を受けたので次のようなコメントをした。

そうです。いや、もっと広く想像力と言うべきかと考え始めました。「あはれ」「をかし」、侘び寂しなど情感を育てるものは、動物になくて人間にのみある想像力のような気がしてきました。

かくして俺がたどりついた言葉が「情感」。すなわち、人間の感情の基本要素は欲望・喜び・悲しみ+情感(おお、俺はスピノザを超えた)。そして、人間が動物には無い情感を持つに至った理由は、人間が記号世界を構築した結果、「いま・ここ」のみならず「昨日・今日・明日」「そこ・ここ・あそこ」に生きるようになり、想像力を得たからである。

生命(動植物)力の基本は「いま・ここ」にしかない。これに対して人間は時間・空間という概念を創造した結果(記号世界の構築→空間・時間という形式は物自体に属するのではなく、現象を認識する際に我々がア・プリオリ(先験的)に用いざるを得ない論理形式)、「いま・ここ」以外をも生きられるようになった(生命力ではなく生命欲とでも呼ぼうか)。

その生命欲の駆動エネルギーが想像力である。春風に触れて秋風に吹かれ桜の美しさに感嘆し枯葉にイブ・モンタンを思う。これが想像力→情感→「もののあはれ」である。かくして人間は事実世界と記号世界更には価値世界という三つの世界を豊かに生きられるのだ。おお、アバウト・ミー。

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2007年10月28日 (日)

エピクテトスの言葉

ストア派の哲学者、エピクテトスと自分で表現したけれど単なるストア派(禁欲主義者)ではなかったよなあ、と気になってネット検索している。見つかったエピクテトスの言葉を後々のためにメモっておく。

「自分自身の主人でない者は、決して自由でない」。
これに関連してこの記事を書いた方は「自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ」という 茨木のり子さんの詩
を引いていらっしゃる。気に入ったよ、この詩。

次は、ストア派とエピクロス派との対比サイトからエピクテトスの主要な(と俺が思う)言説を転載したもの。

「世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある。
われわれの力の及ぶものは、判断、努力、欲望、嫌悪など、一言でいえば、われわれの意志の所産の一切である。われわれの力の及ばないものは、われわれの肉体、財産、名誉、官職など、われわれの所為(せい)ではない一切のものである。われわれの力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されこともない。が、われわれの力の及ばないものは、無力で、隷属的で、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである。」

「人を不安にするものは、事柄そのものではなく、むしろそれに関する人の考えである」

要するに、エピクテトスは
物事は捉えようでなんとでも考えられる。大事なのは自分の心。自分の心の及ばないものにあれこれ囚われるから混乱する。心そのものは自由なのに。
と言っているように思うなあ。

さて、自由とは何か、という問題は善、徳、更には正義の問題とも関係している。今日のところは以上をメモした状態で止めておこう。そのうち発酵するだろう。