短歌

2008年3月22日 (土)

お節介な事務局

Photo 教えて!gooの質問内容にURL(ブログへのリンク)を書いていたら、個人特定につながる廉で事務局に削除された。自己紹介は全文抹消された。そこで書き直したのが下記。平和主義者たる俺に抗議するつもりは全く無い。

ブログ書いてます。アバウトミーもやってます。自分史は嫌いなんで日記帳として使ってます。もごもご日記もあります。以上、URLを全部に付けたのに個人特定につながる情報の廉で事務局に削除されてしまいました。ほんとにお節介な事務局だなあと思います。でもURLへの引き込みその他目に余る営業行為があるのかなあ。あ、俺もブログへの引き込みセールスしたかったんだ。

ついでに近作、俳句と短歌。

 エコとエゴ一字の違ひ菜種梅雨

 オキーフの花見て哲学クールベも世界の始原描きけるかも

短歌の方はアバウトミー質問「世界の根源は花である」をクリックして貰わないとほとんど意味不明だろうなあ。

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2008年3月21日 (金)

酒飲んで相撲を見れば覚えなく翌日の朝ビデオを回す

安馬Photo 勝った!白鵬負けた、朝青龍も負けた。
昨日も満員御礼(これで今場所何度目かなあ)。いくつかの醜聞を抱えながらも我がグローバル大相撲協会は事業隆盛である。モンゴルにもロシアにも足を向けては寝られぬ。日本の将来がここにあるのである。

ところで、昨日の「真理、論理、道理」→質問をアバウトミーにも教えて!gooにも出した。数多の人に支えられて俺は生きたい。

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2008年2月29日 (金)

久しぶりの短歌

Photo_2 したたかは大人の美徳転んでもタダでは起きぬ達磨とならむの欲しき

アバウトミーで質問「団塊のココが嫌い」にコメ「頑固 ってか全て?」→レス「私、頑固かつ柔軟でありたいと思いました」のやりとりをした。そうしたところに、たまたま恩義さんのブログで「「ゆとり」とは柔軟な政治的発想」という言葉に出会った。

そこで、「したたか」という言葉に思いが至り本歌となったものだ。出来はよくない。詩ではないし説教臭い。ああ、嫌だ厭だ。しようがないから「したたかですか?」と公衆に訊いてみた

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2007年2月22日 (木)

団塊男性諸君!

NHK短歌をビデオ鑑賞していたら

 手を焼くは団塊世代の男たち自立もならず自説も曲げず
                           東京都 青木孝子Photo_653

なる歌が出てきた。ゲストの高樹のぶ子も「同世代として実感あり」と発言していた。
うるさい黙れ、女ども。

※画像は高樹のぶ子book 紀伊國屋書店BookWebから勝手拝借/感謝です。

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2007年1月30日 (火)

島秋人と窪田空穂

フジテレビは基本的に観ないのだが、日曜日にたまたま新聞テレビ欄で「われに短歌(うPhoto_565 た)ありき~ある死刑囚と窪田空穂~」があるのを発見し、観た。

死刑囚の名は島秋人。経歴・事件内容についてはこちらに詳しいが、警察署長の息子として旧満州に生まれ、父親が公職追放にあったこと等もあり恵まれない生活の中で育っち、二千円のために強盗殺人及び致傷事件を起こし、死刑判決を下された人である。
獄中で小学生のとき唯一褒めてくれた図画の先生に手紙を出し、先生の夫人の勧めで短歌に目覚める。毎日新聞に投稿したことにより窪田空穂との文通交流が始まり空穂は心を込めて作歌を指導する。

 この澄めるこころ在るとは識らず来て刑死の明日に迫る夜温し

が処刑前日に残した歌である。この歌も含め多くの歌が心を打つ。その中から一首、引く。

 愛に飢ゑし死刑囚われの賜りし菓子地に置きて蟻を待ちたり

昭和42年4月12日窪田空穂、死去。享年89歳。
同年11月2日、島秋人、死刑執行される。享年33歳。

※画像は島の描いた絵である。朗読劇「鬼灯」と企画展「ある死刑囚の短歌と空穂、遺愛集が語りかけるもの」から勝手拝借/感謝です。

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柳沢大臣に寄せる短歌と俳句

日経夕刊につい先日までコラムを連載していた柳沢大臣。若い頃にはアカにもかぶれて なかなかの読書家とお見受けしたのであったが。

 デカルトを昔読みしがつい癖で子を生む機械と言ひにけるかもPhoto_564

ラ・メトリーはその著作で、足は歩く筋肉であり、脳髄は考える筋肉であるとした。100年近く前にデカルトが唱えていた人間を精神と肉体とでできた機械(デカルト的二元論)とみる発想よりも「機械論」に徹していた。という程度はご存知であっただろう、多分。

 生教養怪我の素なり冬の蠅

画像は「人間機械論」を提唱したラ・メトリー。

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2007年1月15日 (月)

藤井常世

久しぶりに「一人一首」である。すっかりご無沙汰、文字通り歌を忘れたカナリアだ。といPhoto_515 いながら駄歌は屁っていたのだから世話はない。要するに、俳句に夢中で「一人一首」まで手が回らない、気も向かないということだ。

とはいえ、始めたことは完遂しなければ気色が悪い。「週三日プールに通ふ日々続く根性なけれど根気はあるぞ」だから。そこで、ゆるゆるぼつぼつ継続の所存である。

さて、今回は藤井常世。常世のゴッドファーザーは折口信夫とのことである。

 なまなまと人顕たしめて秋は暮る一期はゆめといまだ思へず

「顕たしめて」は「たたしめて」と読ませる。恋する人の面影がなまなましく顕ち現れる思いで秋は暮れる、一生は夢と諦めきれないのにという恋歌であろう。
俳句だったら上の句でおしまい。下の句「一期はゆめといまだ思へず」は上の句に対する註釈と決め付けるのは短歌に対して酷、失礼だけれど。

そこで「一期はゆめ」にこだわって検索してみたら、閑吟集「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」に出会った。そうか、「一期は夢」の出典はここだったのか。そして、夢だから狂っていい、狂えというのが閑吟集の歌の本意である。
だから、藤井常世のこの歌は閑吟集からすると本意に添わない使われ方をしていることになる。思い切れないあの人を、人生夢だからこそただ狂え、狂うばかりに思い焦がれると詠うべきではなかったろうか。

 夢の世に葱を作りて寂しさよ     永田耕衣

この点、省略を真骨頂とする俳句では七七が無いから余計な突込みを受ける危険性が少ない。全てを削ぎ落とした抽象こそが人生の本質かもしれぬ。俳句は抽象した上で詠嘆することができるのである。

※画像は香月泰男「業火」。山口県立美術館から勝手拝借/感謝です。

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2006年12月24日 (日)

玉井清弘

今年中には終らんかったなあ「一人一首」105歌人一首紹介駄文企画。
今日の玉井清弘が74人目。このところ俳句で熱中でペースも落ちている。一週一人としてあと30人で30週。連休前後に目出度く終了の見込みか。

さて、玉井清弘。2006年度香川県文化功労者という歌人である。

 夜の海をこえゆく船にうつりいるテレビ静かに火事うつしおり

俳句的感性が身につきはじめた証左なのか、短歌においてもまず取り合わせが目につくようになった。この歌でいえば「夜の海」「船」「テレビ」「火事」が取り合わせである。そしてなかんずく「静かに火事」である。
景を表現して情に訴える。まさにそのお手本のような歌がこの歌だ。夜のフェリーのテレビに火事のニュースが映し出されている。しかも音声は低く、もともと乗客も少ない上に、テレビ画面に関心を寄せる人もいない。そんな情景である。
ここから何を受け取るかは読者に任されている。短歌も俳句もすべからく一行詩は省略という基礎の上に成立しているのである。

この作者の自撰五十首にもこのような地味かつ滋味な歌が並んでいる。繰り返し読んでも飽きない一行詩、それが名句秀歌である。

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2006年12月21日 (木)

岸上大作

安倍総理が憲法改正について「歴史的な大作業だが、私の在任中に何とか成し遂げたい」と明言したとのことだ。マスコミは騒ぎもしない、当然のように受け止めている。

国民投票法案を年明けの通常国会で通し、夏の参院選で大負けしなければ(大敗しないだろう、アホ国民が投票するから)選挙後に具体的政治日程に上がるだろう。参院選で憲法改悪を争点にするような愚かなことは自民党も(悲しいかな民主党も)しないだろう。
国民はずるずるとメディア操作されて嵌め込まれて行く。大企業だけが好景気の恩恵を受けて、庶民特に若者は痛めつけられる。定職につけない若者の存在は技術継承の機会を失わせ国力を衰えさせるのに、政府自民党は何ら対策を打とうとしない。売国奴が売国憲法(アメリカの軍事下請け化)にするのを許すな。

さて、今回の歌人は岸上大作。60年安保=日本がまだ貧しくて平和と自由に飢えていたPhoto_420 時代の象徴的歌人である。

 血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする

今の若者たちはこの歌の「血と雨にワイシャツ濡れている」にイメージを持てないだろうなあ。俺たち団塊は白黒テレビで国会を取り巻く大デモのニュースを観た。デモの真似をして学校の廊下で「アンポ反対、岸を倒せ」と遊んだ(この記憶が70年安保につながっていると思う)。
しかし結局、安保改定条約成立。池田低姿勢内閣で高度経済成長により豊かになった日本は政治を忘れた。
そしていま、新たな貧困(ワーキングプア、階層固定化二極化)が忍び寄っている。また、他方では、国家借金800兆と少子化(こんな国の株価が上がる筈が無いと石井久立花証券相談役が昨日の日経で発言していた)。若者に希望と職を。

参院選で自民党・公明党に投票するな。経済では消費税上げでデフレに逆戻り、軍事ではアメリカの下請け国家化。こんな日本にあなたはしたいですか?

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2006年12月19日 (火)

グールド、寅、自讃の三首

短歌も三首(連作にあらず)。Photo_411

 グールドのバッハを聴けば神のごと宇宙に触るゝ快感の湧く
 寅を観る哲学考ふ句をひねるこれに勝れる宝のありや
 「土曜日の短歌よけれど俳句なほ味はひ深し」自讃の一首

ほんま、いちびりやと自覚してはいるのだが。

※写真は藤山寛美 十八番箱 DVDから勝手拝借/感謝です。

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2006年12月16日 (土)

浜田康敬

実は(何を隠そう)ガキの頃からの阪神ファンである。野球は阪神の試合しか見ない。新聞もほとんどそうである。だから、野球を観て楽しむというよりは阪神を応援する自分を愛する阪神ファンと言うべきだろう。すなわち、メタ阪神ファンである(このチームのファンの多くは俺と同様にメチャではなかったメタだろう)。

ところで、松坂。レッドソックスは120億というカネをどうやって回収するつもりなのだろう。したたかなオーナーのようだから計算は立っているのだろうけれど、そのうち放映権料など日本からの回収額は相当なものだろうけれど、日経あたりがきっちり分析記事を書くべきだろうなあ。それを読んで俺に一銭の得も無いのだが。
更にところで、ベースボールを野球と訳したのは正岡子規と思っていたが、違うようである。それがどうした俺に一銭の損得も無いけれど。

さて、今日は浜田康敬。「両親とは早くに死別。兄弟たちとも離ればなれの生活を強いられた」と歌人紹介にある。

 「盗む」「刺す」「殺す」はたまた「憤死」する言葉生き生き野球しており

破調かなあと思って指折り数えればきっちり定型に納まっている歌だ。内容も平明で分かりやすい。そして下の句「言葉生き生き野球しており」が詩になっている。生き生きとPhoto_4いえば「ガッツ石松かつてボクサーたりし頃われも生き生きおりたりし」という歌もある。

まさに短歌の達人と思う。しかし(ゴメンナサイ)名人ではない。
思うに達人と名人を分かつものは毒ではないだろうか。例を出せば、茂吉も岡井隆も毒がある。人間、善良のみでは立身出世しないのである。

さて松坂は毒ありや。井川も頑張れ、俺が応援する。

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2006年12月 9日 (土)

春日井建

句歌において、いったい「詩になる瞬間」とはどのようなものか。Photo_380
音楽の三要素(リズム、旋律、ハーモニー)になぞらえて、句歌の三要素(韻律、主題・思想、言葉の響き合い)を俺は主張しているのだが、これに沿って考えてみよう。

まず韻律(リズム)。これは定型に即して句歌をつくれば自ずと(語感の問題は別にして)備わる。
次に(主題・思想は置いて)言葉の響き合い(ハーモニー)。俳句においては取り合わせ(二物衝撃・二章一句)という技法が確立されているので、これを勉強・修得すればよい。例を挙げると、「菜の花や月は東に日は西に」蕪村では「菜の花」と「月」が取り合わせの妙である。
他方、短歌には季語が無いので取り合わせという技法のありようが無い。そこで、言葉の貯蔵庫をどれだけ具備しているか、比喩(アナロジー)の発見力が決め手となる。俳句においてもこれらは必要な能力である。

さて、残る問題は主題・思想(旋律)である。これが難問。端的に言うと、対象(風景、心象その他対象となる事実の全て)からどう旋律を紡ぎ出すかということである。
例を挙げよう。「月天心貧しき町を通りけり」蕪村である。

このとき蕪村が町を月光を浴びて歩いていたかどうか知らないが、蕪村は「月天心」「貧しき町」という旋律を紡ぎ出したのである。ここには比喩「貧しき」とか語彙「天心」の力も多少は預かっているが、月が町の上にあったという事実から旋律(論理といってもいいだろう)を抽出する瞬間こそが「詩になる瞬間」である。
つまり、事実空間から論理空間を抽出する瞬間が「詩になる瞬間」なのである。
すなわち、これが「自己の発見」とか「生活から歌う」ということである。理屈・観念で歌うな、物事(事実)に即けということである。

さあ、問題(what)は分かった。あとは習練(how)である。句歌研究、事実探求そして練習しかない。道は遠い、しかし、寿命もたぶん少しは余裕あるであろう。

さて、今日は春日井建。三島由紀夫が「われわれは1人の若い定家を持ったのである」と絶賛してデビューした歌人である。

 童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり

韻律よし。言葉の響きあいもよし(「童貞」と「葡萄」と「したたる」の響き合い、「するどき指」という比喩)。しかし、主題・思想がこの歌だけでは(俺には)よくわからない。
そこで、他の歌を見ると「男囚のはげしき胸に抱かれて鳩はしたたる泥汗を吸ふ」などがある。微かに♭の匂いがする。ハ長調はあまりにも単純だけれど俺はやっぱり♯だなあ。そういう眼で掲出歌を読み直すと、ああやっぱり♭だ。ヘテロに限ると俺は固定観念を抱いてしまったのである。

つまりは、旋律は趣味の問題に帰する部分がある。悪趣味だと切って捨てるのは悪趣味だけれど。

※画像は小松繁敬『葡萄と落葉』から勝手拝借/感謝です。小松さんはALSという病気を患い、入院生活を続けておられる方である。是非、クリックを。

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2006年12月 5日 (火)

佐佐木幸綱

長嶋茂雄      野村克也
大江健三郎    井上ひさし
曾野綾子      田辺聖子
さて、上の三人の対比はいったいなんだろうか。
答えは、左側が短歌型人間、右側が俳句型人間。坪内稔典「俳句的人間・短歌的人間」から頂戴した。
短歌型人間とは「主観的、情熱的、自己陶酔的、真面目」な人間で、俳句型人間は「客観的で冷静、そして自己をも茶化す道化的な精神を発揮」するとのことである。ちなみに著者ネンテン自身は俳人である。

そこで、なぜこうした対比になるかという根拠だが、短歌型人間の自己陶酔・自己主張は「五七五七七音の短歌形式の性格、ことに下句の七七音の働きから生じていると思われる」と主張して、次の歌を例証にする。
 人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を庵にこもりて蠅殺すわれは         正岡子規
 やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君       与謝野晶子
 われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子  与謝野鉄幹

つまり、短歌は俳句より下句七七の分、音数が多いため、つい饒舌となり上の三首(特に鉄幹の歌)のように自己陶酔的ホットになるというのだ。確かに俳句は「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と自制客観となるのだが、短歌は歯止めがないなあ。
しかし、ものごとは皆バランス。左が無ければ右も無い。心は左にお財布は右ポケットに、とか、熱いハートと冷たい頭脳とか言うではないか。短歌あっての俳句、俳句あっての短歌である。だから、多数派の右傾斜はやっぱりキモイぞ。Photo_366

さて、今日は佐佐木幸綱。男歌の代表的歌人であり、俵万智のお師匠さんである。

 ゆく水の飛沫き渦巻き裂けて鳴る一本の川、お前を抱く

「ゆく水の飛沫き渦巻き裂けて鳴る一本の」は「川」を引き出すための万葉調枕詞であろう。これが現代的前衛的技巧であり、歌の中身は「お前を抱く」だけである。
しかし、このような饒舌冗長な形容が新鮮な喩を歌にもたらし、しかも、硬い措辞が男っぽい雰囲気を醸し出すのである。女ならこんな男に惚れてみよ、と言っているのである。

幸綱はラガー・マンで「ハイパントあげ走りゆく吾の前青きジャージーの敵いるばかり」というラグビーを題材にした歌もある。むせるような男臭さ。この味は俳句ではちょっと音数が足らぬなあ。おセイさん(田辺聖子)の好みではないと勝手に思うのだが、いかがなものか。

※写真は早稲田ウィークリーから勝手拝借/感謝です。

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プール歌、二首

昨日のプールは短歌脳であった。Photo_365

 欲張りはもう止めました健やかにあれば嬉しと神仏に謝す
 下品さは自づと現るプールにて嫌な女と今日も会ひにけり

正味1時間強の間、無言で水中徒歩・平泳ぎ、そしてサウナをこなす。嫌な女に会うのがちょっぴり楽しみだったりして。
プール体重:85.0→84.4。節酒効果かもしれない。

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2006年12月 3日 (日)

小中英之

句作を始めるようになってあらためて叙情を思う。短歌は徹底的に私歌だから、自分の思Photo_359 い(メロディ)を韻律(リズム)に乗せて適当な措辞で響かせれば(ハーモニー)、なんとか歌にはなる。

しかし、17音と土俵が狭い俳句ではメロディを歌わせる余裕が極端に少なくなる。だから、「ものにつけ」ということになり主観よりは客観でメロディを歌わざるを得ない(即物有情)。
つまり、詩句の結晶度がより高く要求される(ごめん、短歌を見下しているのではない。俳句に現在バイアスがかかっているので許せ)ことになるのである。まして、季語という核がある分、写生が要求されるから尚更である。

こうして、思想をいかに旋律に転換するかという技(詩そのもの)が俳句では殊更に必要となるのである。また、中途半端な思想ではそもそも詩にはできないから、思想自体もやわではお話にならない。要するに、考え抜け、言葉を鍛えよ、である。

さて、今日は小中英之。若い頃から不治の病に冒されていて、2001年に他界した歌人である。

 今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅

平明で透明な叙情をたたえた歌だ。上の句「今しばし死までの時間あるごとく」が前奏を奏で、下の句「この世にあはれ花の咲く駅」が主題旋律を美しく歌う。
時間が止まったような風景であるが、しかし、いつか死は確実にやって来る。病を得ている歌人はそれだけに切々と歌い、詠うことにより時間を着実に刻みたいのではなかったろうか。

短歌においても俳句においても最後の主題は死だと思う。死を凝視することにより生は豊かになる。それを信じて鍛えよ言葉を。

※画像は雪舟から勝手拝借/感謝です。

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2006年11月30日 (木)

奥村晃作

このところ(正直に言って)俳句に夢中である。なぜ、こんなに夢中になったかという理由についてはウィトゲンシュタインとの出会いにありという自分なりの自己分析があるが、これはいつかまた書きたい。
それはさておき、俳句である。俳句の魅力のひとつは省略にある。簡潔なのである。

 生きがたきこの生のはてに桃植ゑて死も明かうせむその花ざかり  岡井隆
 夢の世に葱を作りて寂しさよ  永田耕衣

短歌と俳句を並べてみた。岡井隆が冗長に(申し訳ない)語っていることを、耕衣はぽんと放り出してお終いである。耕衣が「グダグタ言いなさんよ」と言っているかのようだ。
しかし、短歌には短歌の言い分がある。言葉を連ねて言いたいことがある。映像として読み手の脳に伝えたいことがある。
つまりは、短歌は具象画、俳句は抽象画ということかもしれない。この両者の世界で独りよがりに遊べる吾は幸せなりき。

さて、今日は奥村晃作。奥村晃作短歌ワールドを開設運営して元気いっぱいな歌人70歳Photo_349 である。

 次々に走りすぎ行く自動車の運転する人みな前を向く

一読、面白い歌だ。なにが面白いといって当たり前だから面白いのだ。言われてみればなるほどなのである。後ろを向いて運転する人なんてこの地球上に一人も(自信無くなってきた、ミラー使いが一人ぐらいいるかもしれぬ)いない(たぶん)。
作者にはこの手の歌が多い。いわゆる、ただごと歌である。
では、なぜ、ただごと歌を作者は好んで作るのか。

さきほど、俳句と比較して短歌は具象画と書いたけれど、この論理を延長すると具象画はただごと歌に到達するという理屈がひとつである。
もうひとつの推測は、作者の自己紹介にあるように思う。ここで作者はこう書いている。

少年の日と同じく、あいも変わらず、本当にやりたいことが何であるのか分らない。何のために生まれてきて、どういう使命を帯びていまなお生かされているのかよく分らない。

そして「
わたくしはここにゐますと叫ばねばずるずるずるずるおち行くおもひ」他の叙情歌が引かれている。

短歌には、俳句では汲み尽くせない叙情がある。この叙情を俳句は切り捨てることによって成立する。ものにつけ、ということである。ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」のが俳句なのである。

これに対して、奥村は叙情を切り捨てない。叙情を切り捨てるのではなく、裏側から歌いたい、それが奥村のこの歌ではないだろうか。前を向かねばならぬ運転者の切ない感情がここにはある。

※写真はクレスタ ユーザー評価 【carview】 トヨタ クレスタ - ユーザーレポートから勝手拝借/感謝です。

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2006年11月23日 (木)

小野茂樹

投句してコメント読み書き、さらには名句鑑賞して俳句脳はいったん終了。
一息ついて、来し方行く末を思えば短歌脳となり一首を得し。

 失ひしもの少なくて得しものの多しと思ふ冬の夜明けに

先物の傷は未だに残れども、代わりに俳句を得たと思えば釣り合いがとれたと思う浅墓さ。一歩後退、二歩前進。おお、陳腐な言葉ばかりなり。

つまり、我が句歌に親しむ由縁はと、これもまた自分探しなのか、いや、ボケ防止と立派客観理由あり。そうそう、我れ青春に非ず。自分探しとは言えぬ。なんでや、なんで自分探しと言うたらあかんねん、責任者出て来いコイコイ池の鯉。Photo_327

さて、今日は小野茂樹。悲運の夭折歌人なり。

 あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

二句から三句へたたみかけるリズムの気迫に加えて、下の句の命令形で読者は粛然とする。そして、作者の夭折を思うと、「表情」は永遠と化して記憶に固定される。
青春相聞歌の傑作である。俺にはこんな青春は無かったなあとちょっぴり口惜しく妬ましく思ってしまう傑作である。紆余曲折を経て果たした雅子との再会を背景にした歌とのことであるが、そんなことを知らなくても、この歌の透明で衝撃的な叙情を十分に感じることができる。

歌は叙情、句は叙景。情と景、すなわち心のうちそとを友とできる俺は(とにかくもまあ)仕合せなのだ。

 珈琲とジャズが青春秋扇

昨日、プールで得た句である。来年の秋、もし生きていたらハイクブログに投句しよう。

※写真は花物語  「羊雲離散」から無断拝借/感謝です。転載禁止ならば即削除いたします。

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2006年11月20日 (月)

寺山修司

昨日、ご近所の方の告別式で調布のセレモニーホールまで行ってきた。享年63歳。数年前に喉頭癌の手術をされて、金曜日の未明に自宅トイレで吐血し寝床に戻ってそのままだったようである。お酒の好きな方だったようで、親しく会話したことはないけれど朝ウォークの途次で毎日のようにご挨拶したお付き合いであった。

遺影の代わりに大型ディスプレーが中央に配置され、読経・焼香等伝統的儀式が済んだPhoto_320 後で故人紹介のナレーション、バイオリン演奏(裕次郎「わが生涯に悔いはなし」)がなされる現代風告別式だった。献花させて頂き出棺まで見送った。人の生涯を思う一日であった。

さて、今日はスーパースター寺山修司。三沢に記念館があるようで、今でも熱烈なファンが多い句歌演劇マルチタレントである。私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばではあれば、十分。という言葉を残して47歳で逝ってしまった。

 きみが歌うクロッカスの歌も新しき家具の一つに数えむとする

寺山の歌は多様性に富み、どれが現か夢かわからぬところがあり、諧謔風刺おちょくりさえも感じられることもある。有名な「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」にしても額面通りに受け取っていいかどうか、「いや、単に裕ちゃんを気取っただけさ」と言われそうな気もする。
そんな寺山の歌の中で恋愛歌謡を選んでみた。みずみずしく鮮烈な歌であり、句跨り前衛手法を取り入れてモダンを感じさせ、それでいて歌謡性を失わないところがこの歌のいのちだ。

単独でこの歌のみを鑑賞すると、彼女と一緒の暮らしを始める青年の喜びの歌のように見えるかもしれない。しかし、寺山ワールドの中にこの歌を置くと(現代の短歌に掲載されたいくつかの歌を見渡すだけで)別の風貌が見えてくる。青春とは純粋さではない、偽悪と偽善のないまぜのような気がしてくる。ウソもマコトも全てがホントウなのだ。

だから、葬式で故人紹介なんかやってほしくない。片付けてほしくないと思う。
もっとも、死んだらなんにもないのだからどうでもいいことなのだけれど。葬式は生者のための儀式なのだから。

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2006年11月18日 (土)

オヤジ短歌とアマデウス

上原彩子のピアノをテレビで観ていたら歌が浮かんだ。Photo_317

 美醜にて判断するなと思へども美人のピアノ美麗に聞こゆ

日経歌壇にときどき掲載されるオヤジ短歌だなあと自省したけど、性懲りもなくまたオヤジ歌を読めり。 

 オヤジよりチョイ悪オヤジと呼ばれたしどちらも同じくクソが付けども

ところで、12/4遂に「アマデウス」BS2放映。冥土土産DVDにせむ。

※画像はアマデウス  象のロケット≪宅配DVDレンタル&前売券≫から勝手拝借/感謝です。

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小野興二郎

最近、人生観より死生観と思うようになった。ゴールを見据えつつ生きるということであPhoto_316 る。
そしてまた、「すこやかな脳で死にゆく冬の蝿」なる句に見られるように、恙なく生を全うしたい(はっきり言うと寝たきりになりたくない)という気持ちを強く持つようにもなっている(おかげで節酒三夜を恙なく過ごせたが。おお、今日は週末だ。焼酎、飲むぞお)。

ともかくもまあ、生を恙なく全うするというのも一つの事業である。そしてまた、意に反して病気になるのも人生である。生老病死、まさに生まれたこと自体が四苦八苦の苦であると仏教はのたまいにけり。

さて、今日は小野興二郎。「肝生検を受けショックを起こしその後遺症のため市川学園を退職し長期療養に入る」と歌人紹介にある。

 妻が望みわがあくがれしをみな子はかくうつくしきほとを持ちたり

「妻が望みわがあくがれし」とそれぞれ字余りの初句二句を受けて、この歌の核は「かくうつくしき・ほとを持ちたり」と句跨りで詠われる四句結句にある。
思わぬ病を得てそれと闘う作者にようやく生まれた女児。その女児の生殖器外貌を見つめて作者は美を感じる。いのちの連鎖である。

人は死するために生まれて来る。生の過程で様々なことを起こしたり起こされたりしつつも、いつかは確実に死ぬ。そしてまた、死の前段階たる老いも避けられぬ。それどころか、老いを経ずして亡くなったり、若くして病を得て苦しむ人もある。
だから、恙なく死を迎えることがどれだけ幸運なことか。

俺はイタイの、苦しいのが大嫌い。だからこそ、節酒を必死で続けよう。呆けたり中風で寝たきりになって人の世話になることを思えば、節酒ぐらいなんていうことはない。

さて、公開の場でここまで書いたのだから、節酒完遂できなくてはならぬぞと我とわが身にプレッシャーをかけたのであった。

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2006年11月13日 (月)

稲葉京子

テレビを見ていたら「いじめをなくそう」キャンペーンを実施中とか言う。何を笑止千万。そPhoto_305 んなもん無くなるものか、無菌社会を作ろうなんてと思う。どうせやるんだったら「いじめに負けるな」とか「負けても死ぬな」とか「いじめをちくろう」キャンペーンをやったらと思う。

しかし、これは当事者でない人間の言うことかもしれぬと反省もする。足を踏まれた人間の痛みは踏まれた人間でなくてはわからぬのだから。
とはいえ、痛みはいつかは消える。いや、忘れねばならぬ。死んだらおしまいなのだから何も無いのだから、絶対に死ぬな。死ぬぐらいなら相手をちくれ。ちくってちくってちくりまくってやれ。

だから、「いじめに負けても死ぬな」キャンペーンぐらいが妥当なところかもしれぬ。ピンチはチャンス。死ぬほどに追い詰められてあらためて知るいのちなり愛せよ我が身

さて、今日は稲葉京子。「婦人朝日」の投稿から歌を始めたそうである。

 風よりも静かに過ぎてゆくものを指さすやうに歳月といふ

おだやかな歌だ。このおだやかさは何処から来るか。
人間はひとひらの風。そのときは大変だけれども過ぎてみれば風。風の過ぎにしばかりなり。

しかしながら、もし我が子がいていじめられたらなんとしよう。ひとひらの風よ、と言ってもわからぬだろうなあ。

※画像はいづつやの文化記号 神奈川県近美葉山館の山口蓬春展から勝手拝借/感謝です。

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2006年11月12日 (日)

偶数は縁起悪し

先ほどの記事を送信した後に思いついた。
そうか、婚礼の祝儀と一緒やんか。偶数は泣き別れにつながるという理由で嫌われているんだ。

 2万円で済ましたいけど偶数は泣き別れなり3万となる

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2006年11月11日 (土)

石川不二子

こうやってブログに駄文を綴っていると、我ながらつくづく、言葉、いや、言葉を弄ぶのがPhoto_301  好きだなあと感心する。寡黙を標榜している俺だけれど、ほんとはやっぱり、喋りだしたら止まらないのであろう。困ったものだ。

ところで、「言葉は世界の可能性の全体だ」という意味のことを説いた哲学者がいた。例えば、「本が机の上にある」状態を想像しよう。この事実を「本が机の上にある」と言語表現するということは、その否定形「本が机の上にない」ということを可能性としてはあり得るということを示していることになる。
つまり、言語を持たない動物たちにとっては、世界は常にありのまま、時間も空間も無く可能性も無いのであるが、言語を弄ぶ人間にとっては、過去・現在・未来があり、ここ・そこ・あちらがあり、可能性とか希望とか絶望が生まれるのである。

こんなの下らぬ。虚妄だ。世間皆虚仮と主張するのが仏教である。だから、色即是空という。もっとも、仏教はちゃっかりしていて空即是色と反対側の可能性にも言及している。

さて、今日は石川不二子。広く、深く、おのがじしにの心の花に属する歌人である。中城ふみ子と同時に、かつ、中城の激しい情念と対照的な、健康的で清新な作風として歌壇デビューしている。

 われと同じ名をもつ林檎も薔薇もありこの世たのしとしばしは思へ

言葉フェチの俺はこの歌の下の句「この世たのしとしばしは思へ」に惹きつけられてしまう。仮令(この字をいっぺん使うてみたかった)世間虚仮であろうと、遊びをせむとや生まれけむ、だから、この世たのしとしばしは思へ、である。しかし、作者は開拓酪農の厳しい生活に自ら入った人だけに重みが違う。安易に惹きつけられたなどとほざくな、極楽トンボ。

とはいえ、言葉は世界の可能性だから、何を言ってもいい。どんな事態でも表現可能である。しかし、言葉と世界を結びつけることだけは絶対に必要だ。これが無ければ本当に世間虚仮になってしまう。
そして、言葉と世界とを結びつけるのは各人の人生しか無い。人生という現実において人は言葉を語り言葉と現実はリンクされる。だから、言葉で約束し裏切り裏切られ希望し絶望するのである。これを称して「
私の言語の限界が,私の限界を意味する」とウィトゲンシュタインは語ったのであろう、多分。この世たのしとしばしは思へ。

※画像はバラ 紀伊國屋書店BookWebから勝手拝借/感謝です。

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2006年11月10日 (金)

俳句の出来損ない短歌

我がPCデスクトップに俳句メモを置いて在庫管理しているが、そのうちの一句。Photo_297

 悦に入るひとりよがりの冬の蝶

よさそうでよくない。ぴったり来ない。という訳で投句せずにいたところ、さきほど朝ウォークで「冬蝶の」に直したらどうかと思いついた。
しかし、やっぱりよくない。「冬蝶の」にするのならいっそ短歌にしよう。そこで、

 悦に入るひとりよがりの冬蝶の句歌の世界に遊ばむか我

おお、でけた。これはいいと、まさにひとりよがった。
要するに、俳句にするには思想が凝縮されていなかったということなのだ。

※画像は関西生活情報サイト フルルKansai - ゆんぴょの日記から勝手拝借/感謝です。

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2006年11月 9日 (木)

ひろく、深く、おのがじしに

一人一首次回(石川不二子)の準備作業としてネット検索していたら「心の花」(俵万智もPhoto_294 同人である短歌結社)に遭遇し、タイトルの言葉に出会った。
この言葉、以前にも目にしているのだけれど、今日はなぜか、心に沁みた。

 言葉との出会ひは音楽聴くごとく心に響くときのありけり

「おのがじし」って今ではほとんど死語のように思うのだけれど、ネット検索すると、校歌などにはいまだ使われているようだ。たとえば佐賀県立小城高校「おのがじし進む道あり」などと。生徒は判って歌ってはいないやろうなあ。

※写真は北陸中日新聞 ふるさとよ!から勝手拝借/感謝です。

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2006年11月 8日 (水)

田井安曇

(正直言うと)コメントを頂くと(チョー)嬉しい。しかし他方、他人嫌いを標榜する俺としては、正面からコメント大歓迎プロポーズも出来ぬ。要するに、「春宵の酒場にひとりPhoto_291酒啜る誰か来んかなあ誰あれも来るな」石田比呂志@気分である(←あ、この歌、ヘッダーに貼ってやろ)。
人間ひとりが一番、というのは粛然たる真実と信じるが、一方で、意味の他者との出会いは存在論的経験をもたらし論理空間を豊かにしてくれるのだ。

ええい、コムツカシイ理屈をこくな。一期一会、花に嵐の喩えもあるぞ、さよならだけが人生だ。と言えばオシマイの話である。人といふ文字を分解してみればもちつもたれつ支え合ふなり

さて、今日は田井安曇。歌人紹介には<敗戦後、靴屋(元海軍下士官)の高橋さんにより歌をつくりはじめ、「花実」に入会。岡崎高等師範学校時代「アララギ」を経て「未来」創刊に加わる>とある。

 闇にまぎれて帰りゆくこのよるべなきぼろぼろをわれは詩人と呼ぶ

破調である。指折り数えると、7・5・7・7・7=33となる。二句のみが5音で、後は全て7音で韻律を形成している。
詩句の核は「このよるべなきぼろぼろを」であろう。この核に「詩人」がかぶさり自嘲と自負のないまぜが「闇にまぎれて帰りゆく」思想(主題)となる。

でもね。みーんな誰しも、よるべなきぼろぼろなんよ、あんた。実存が本質に先行するなどという小ざかしい屁言葉もあるけれど、気がついてみたらみーんな生まれて生きとったんよ。だから、あんたひとりのものではないのよ、よるべなき実存は。

ところでこの歌人は、憲法九条を守る歌人の会(九条歌人の会)で講演活動をされているようである。それを「サヨ」と蔑称して批判する人もいる。人といふ文字を分解してみれば左と右の二画に分かる。おお、もう一首。

 左右より美醜を語れ観念は親の仇と哲学書読む

※画像は♪お玉つれづれ日記♪ ~沖縄★美人画報~   女の「ひとり花見」マニュアルから勝手拝借/感謝です。

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2006年11月 3日 (金)

石田比呂志

人生に意味はあるか(エロスより出でてエロスに環り来む意味を求めてめぐりし後に)?Photo_280

そんな難しい問題わかれへんわ、と投げてもいいがウィキペディアだけはしてみよう。
言葉(単語・用語など)が持っている概念の事。とある←ちゃうなあ。もっとも、別の意味にも触れていて、ある物(物体やシステムなど)が存在するする必要性や理由の事とある。
そうそう、これこれ、すなわち、価値や、と今度は価値をウィキペディアすると、「価値」は「良いという性質」のこと とある。
なるほど。では、良いとはなんやねん、とまた疑問が湧く。

かくして、辞書めくりは循環する。言い換えれば辞書(規則)は意味(行動)を定め得ない。つまり、規則は行為の仕方を決定することはできないとなり、これが規則のパラドクスと言われているものである。語の意味とは言語におけるその使用であるとも言う(→リンクを拝読して使用方法(形態)に訂正)。

つまり、人生に価値があるかどうかは辞書をめくってもわからん、人生は人生してみないと意味不明という健全な常識人の理解に到達するのである(ここで冒頭の俺の歌を読み返すこと)。

さて、今日は石田比呂志。現代の短歌の歌人紹介に「昭和5年生まれ、旧制中学中退後、21年、16歳で一握の砂を読んで歌人を志す」とある。

 酒飲みてひとりしがなく食うししゃも尻から食われて痛いかししゃも

韻律(リズム)は出来てるけれど、いったいこの歌は何(思想=メロディ)が言いたいねん。「尻から食われて痛いかししゃも」が人を食った比喩(ハーモニー)ではあるが。
と、疑問に思えば得意の検索→居酒屋にて石田の酒を啜っている傍で、「鯛焼きは頭から食べるのか」「それとも尻尾から食べるのか」を論じ合っていた事から、生まれた歌であると遭遇→なるほど、嘘の中に大輪の真実の花を咲かせるのが歌であり、読み(意味)の探索は読者に任せられているのである。

と、ここで終わってもいいのだが、まだ、続きあり。しばし休憩。

ところで、「石田比呂志」でネット検索していたら20歳も年の違う、妻のある人と、いわゆる不倫の恋をしたのですもの、両親は泣きました。に遭遇した。石田の現在の連れ合いである阿木津英(フェミニズム歌人の先駆け)の文章である。他人の私事を云々するのは趣味ではないが、本人が新聞に発表した文章だから、ここでリンクしても差し支えはないだろう。

石田も阿木津もそして誰もが、真実の生を生きている(なぜなら人生は一回こっきりだから)。そして、人生の意味は、生きること自体・その瞬間において主体的に判断するしかない。意味・価値を決定する規則はない。仮にあったとしても、規則は行為を決定することができない。だから、多元的価値観こそが健全な価値観であると俺は思う。

ちなみに、阿木津英は現代の短歌に入れてもらっていない。そこで、彼女の歌を一首、引いておく。

 産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか

※画像はINSPIRED BY...ISHIDA HIROSHIから勝手拝借/感謝です。

ブログランキング(我ながらよくできました)

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2006年11月 2日 (木)

サイドバー歌集(一応)完成

おいおい作るつもりが結局、今日のうちに作ってしまった。 Photo_15
こらえ性がないのだよ、おまえは。
とはいえ、歌の編集(配列)が楽しかった。
そしてまた、やっぱり縦書きは格好がいいことを再認識した。

さて、これで(いつかまた)歌が浮かんだら、ここに追加していけばいいな。これぞウェブ歌集なり。

※画像はゴールインマークの歴史から勝手拝借/感謝です。

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サイドバー歌集作成中

ブログパーツに凝ってしまった。昨日は「名言集」を更に追加、そして今日は歌集を自歌Photo_279 自讃してサイドバーに載せる始末だ(このビョーキ治らぬわ)。

おいおい、歌を追加していこう。ツールは縦書き文庫&ブログパーツを利用させて頂いている。

※画像は★★TAMIYA SHOPから勝手拝借/感謝です。

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雨宮雅子

ビデオに録っておいた亡国のイージスを観始めたけれど、冒頭の佐藤浩市の重々しい感慨(守るべき国とは何か)から既に嫌気がさしはじめて、アクションが始まり出した頃に途中放棄してしまった。晩飯の酔いのせいもあるかもしれないが、どうも俺はこらえ性がない。一生懸命作られたスタッフ・キャストに申し訳ないではないか。

しかしながら、老境に近くなると重々しい映画にはついていけなくなるようである。実は(何を隠そう)戦争映画は嫌いではない。眼下の敵ナバロンの要塞など(古いナア)理屈抜きのアクション(物理・心理)、スリルは楽しめた。日本映画はなんで形而上学(存在とは何か等)を中途半端にまぶして映画をつくるのだろう。Why、What、Howの問いのうち、Whyは最も重い問いである。重い問いに答えるためには相当の覚悟と準備が必要になPhoto_277るはずだ、と理屈好き老人候補は思うのである。

さて、今日は雨宮雅子。「女人短歌」「林間」創刊に参加し、のち「地中海」でも活躍を経 て、現在「雅歌」を発行、キリスト教の洗礼を受け、聖と俗に身をおきながら神を求め続け、歳月への思いを深くする清浄なる祈りと歌集の惹句にある。

 国の忌も個の忌もひとつ夏花の夾竹桃のいろににじみて

二句で切れて、「夏花の」が「夾竹桃の」につなぎ、ひらがなの「いろににじみて」とやさしくかなしい余韻で終える。作者は昭和4年生まれ(ちなみに俺の亡母は3年生まれ、亡父は元年生まれで敗戦の日に即日除隊となったそうだ)、思春期を戦争で過した世代である。
死者について語ることはあっても、死者は何も語らない。他方、国敗れて山河あり、どころか国敗れて国は再生したけれど、死者は還らない。
映画ならば戦闘のスリルを楽しむけれど、実戦では(俺なんか一番に)小便ちびり糞を垂れるかもしれない。怖いこと痛いことは絶対に厭だ。

だから、我らはWhyの問いを忘れてはならない。なんであんなあほな戦争をしたんや。

※画像は三岸節子・赤い花から勝手拝借/感謝です。

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2006年10月31日 (火)

高嶋健一

久しぶりの「一人一首」である。Photo_273

前回(馬場あき子)で歌謡曲短歌について触れたが、もう少し考えてみた。

歌謡曲短歌とは、詩になっていない通俗的短歌をいう。前回、引用した俺の歌

 リストラの風は冷たしこの宵は二合の酒に酔ひて眠らむ

が、その一例だ。

では、歌謡曲短歌か否かを判定する基準は何か。
音楽の三要素に倣って、短歌の三要素を(以前にも考えたが)考えてみた。
声調・韻律(リズム)、思想・主張(メロディ。以前はこれを措辞としていた)、メタファー(ハーモニー。以前は言葉の響き合いとしていた)が短歌の三要素と考える。

まず、声調・韻律は、声に出して歌を読んだ場合の調子すなわちリズムである。定型を守っていればこれは自然に伴うものだ。上の例で言えば2句切れ(3句切れよりこちらの方が心地よいリズムをつくる。音楽で言えば下の句が弱起の調子になるからだ)で声調よく、ほとんどこれだけで点を稼いでいる。ちなみに、前衛短歌では意識的に句割れ・句跨りを作り出し晦渋なリズムを生み出す技法がとられている。

次に、思想・主張は、歌の内容、つまり、歌が言いたいことである。どんな文章でも意味をなす以上はなんらかの主張がある。短歌も文章である以上、なんらかの主張があるはずだ(無内容を売りにする短歌もあるけれど、それは無内容を主張にしているのだ)。
上の例で言えば、作者のリストラに対する位置取りが不分明ではあるが、リストラについての思想表現はなされている。メロディも聞こえるのである。

そして最後はメタファー(広く、喩。隠喩に加えて直喩も含むと俺は考える)である。これが詩の本質であり、短歌の味噌である。これがなければ歌ではない。作者は思想・主張をより鋭く深く読者の胸に切り込ませるために愉に最大の工夫を払い、読者は、意外で新鮮なメタファーに遭遇すれば言葉と世界について新しい見方を開かれる思いになる。
上の例で言えば「二合の酒」にほんのちょっぴりの愉はうかがえるが、何か新しいものが見えるわけではない。つまり、歌謡曲(酒よ涙よつらい切ない別れよ)と同じく、手垢の付いた言葉ばかりが並んでいるだけなのだ。愉がない歌、それが歌謡曲短歌である。

そこで、白秋の名歌を引く。後朝の別れという主張はありふれているとしても、この歌の何度繰り返して読んでもくみつくせない愉を味わって頂きたい。

 君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

さて、今日は高嶋健一。紹介文(たぶん歌人自身の文章だろう)には「具象と抽象のあわいに漂う世界を表現したい」とある。歌人の根本旋律(思想)であり通奏和音(愉)である。

 てのひらのくぼみにかこふ草蛍移さむとしてひかりをこぼす

愉は一方で、読みをかなりの部分で読者に任せる。読者は連想を広げて、あるいは、記憶を遡ったりして自由に歌を鑑賞すればいい。読者は「てのひらのくぼみ」「草蛍」「ひかり」に何を思うか、この歌を読むとき、具象と抽象のあわいに漂う音楽が聞こえては来ないか。詠みと読みとを音楽がつなぐのである。ちなみに、草蛍の歌の歌碑が 清水市の船越堤公園にあるとのことだ

とはいえ、歌を詠むためにはまず伝えたい思想がなければならぬ。

 我が歌の泉は涸れて凡作を転がし遊ぶ夏の夕暮

泉から思想を湧かせることができるのは作者だけ。深く生きよ、歌謡曲歌人よ。

※画像は旅の写真館_フランス編から勝手拝借/感謝です。

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2006年10月25日 (水)

馬場あき子

新聞投稿の話が続く(多分、これで最後)。
当時、「朝日見て左にすこし傾けて日経を読む毎日の朝」と朝日と日経を購読していた(いまは、朝日を読む時間と購読料が惜しくなって日経だけにしているが)。Photo_265
そこで、新聞投稿を始める際に標的を朝日にすべきか日経にすべきか少し考えた。結論は日経。読者層の量と質から考えて、断然、日経の方が入選確率は高いだろうからだ。
かくして日経投稿を始めたのだが、一首だけ朝日歌壇に入選した歌がある。

 リストラの風は冷たしこの宵は二合の酒に酔ひて眠らむ

日経は選者指定で投稿するが、朝日は指定不可だった。そして、この歌を採ってくれたのが馬場あき子である。「リストラに対する作者の位置取りが不分明」旨、評されていたことを覚えている。確かにその通り、当事者なのか第三者なのかはっきりさせず、当時流行りかけていたリストラ現象を定型の声調に乗せただけの歌謡曲短歌なのだ。そして、こういう傾向歌は日経より朝日の方が採られやすいだろうと踏んで朝日に投稿したのだった。

 あざとさは俺の戦術、歌謡曲短歌をひねり朝日に載れり

さて、馬場あき子。「民衆詩としての短歌」を標榜する「まひる野」に入会し窪田章一郎に師事し、その後「かりん」を主宰。能に造詣が深く新作能を作られたり、ご自身でも舞われるようである。

 さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり

「さくら花」で起こして「幾春かけて老いゆかん」と詠嘆して切れた後の「身に水流の音ひびくなり」がこの歌の肝であろう。さくらの木の中に、清冽な水流の映像が湧く。いや、さくらを見ている作者の体内に水流はあるのだろうか。これは舞っていらっしゃる瞬間のお歌だという読みもある。様々な読みを許容しつつ「水流」は歳月を流れる。

あざとさも時に必要だけれども、身に響くぐらいの水流を懸命に流してみよ。それが出来ぬ俺は所詮歌謡曲歌人にもなれないなあ。凡と非凡との間の距離は相当のものとあらためて思う。

※画像はエリシナ-elishina- 能面 般若から勝手拝借/感謝です。

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2006年10月22日 (日)

島田修二

前回に日経歌壇を出したので、もう少し続けさせてもらう。
投稿を始めたのは1995年。当時の選者は岡井隆と高野公彦。投稿第一作(仕事とはものつくることの喜びぞ流れ流されるな「秀才」の君)を岡井隆に採ってもらって、気をよくして、この歌は岡井向け、こちらは高野向けなどと自分なりに振り分けて毎週投稿を続けた。

こうして高野公彦に採ってもらったうちの一首が次の歌である。

 我が眉に白毛一本見つけたり悲しき器ししむらの老ゆ

実は、「悲しき器」は大昔に読んだ高橋和己「悲の器」から借りた。また、「白毛一本」は茂吉の「Munchenにわが居りしとき夜ふけて陰の白毛を切りて棄てにき」が意識下にあっ